「長谷部の後釜」へ大きく前進した遠藤航 ボランチとして、日本の中核を担う存在へ

元川悦子

長谷部誠の「後継者」として大きな一歩

決勝のカタール戦こそけがのため出場できなかったが、大会を通してハイパフォーマンスを見せた遠藤 【写真:松尾/アフロスポーツ】

「2019年アジアカップ事実上の決勝戦」と評され、注目を集めた1月28日の準決勝・イラン戦。「しっかり球際でバトルするところを見せてほしい」と日本代表の森保一監督が語ったように、球際の勝負が試合の明暗を分ける重要ポイントだと見られた。

 ボランチの一角を占める遠藤航は、序盤から相手に対して激しく体を寄せに行き、簡単に自由を与えない。最前線に陣取るエースFWサルダル・アズムン目がけてロングボールを蹴り出される場面でも、素早くこぼれ球に反応。そこから攻めに転じる。堂安律と大迫勇也、南野拓実が絡んでゴールに迫った日本最初のチャンスのサイドチェンジを筆頭に、遠藤は的確な球出しで何度も揺さぶりをかけた。後半15分に左もも裏を痛めて退くまでの仕事ぶりは効果的で、ベンチに座り続けた半年前の18年ワールドカップ(W杯)ロシア大会の時とは別人のように堂々としていた。

「ロシアではチームも個人としても悔しい思いをして、その後のベルギー移籍(シントトロイデンVV)があり、『中盤で勝負したい』という気持ちでやってきました。それを少しずつ代表で出せるようになってきたし、自信もついてきた。ただ、代表でスタメンを取れたとは考えていません。大事なのは自分の良さを出し続けていくこと。その先に代表の中心を担う選手になるイメージを持ちながらやっていきたい」

 イラン戦前日、リオ五輪世代では初となる公式会見の登壇者に指名された際、遠藤は神妙な面持ちでこう語った。その思いはイラン戦のみならず、大会全体のパフォーマンスに表れていた。2月1日の決勝・カタール戦は、1−3の完敗をベンチで見守ることになり、「チームとしてまだまだだと思い知らされた大会でした」と悔しさをにじませた。しかし、長谷部誠という10年間ボランチの軸を担った偉大な先人が去って最初の公式戦で、遠藤自身はその「後継者」として、大きな一歩を踏み出したと言っていいだろう。

柴崎も手応えを抱く遠藤との関係性

ボランチでコンビを組んだ柴崎(7番)も遠藤との関係性には手応えを感じているようだ 【写真:ロイター/アフロ】

 森保ジャパン移行後の遠藤は、ボランチの定位置をつかむために積極的なトライを続けてきた。18年の親善試合5試合では青山敏弘と1試合、柴崎岳と2試合コンビを形成。持ち前の守備力だけでなく、組み立てやパス出しといった攻撃面でアグレッシブさを押し出そうとしていたのが印象的だった。

「長谷部さんのところが1枠空いたのは間違いない。そこに誰が食い込んでいくのかは、新たな日本代表にとって大事な点。僕がベルギーに行ったのもそこで出たいという思いがあったから」と彼はポスト長谷部の座を虎視眈々(たんたん)と狙いつつ、アピールを続けてきた。

 指揮官に仕事ぶりが評価され、今回のアジアカップでは、ロシアで長谷部とコンビを組んで16強入りの原動力になった柴崎のパートナーに指名された。同じポジションを争う青山からも「今のボランチのファーストチョイスは岳と航」と一目置かれるほど、2人のバランスは良好だった。同じ92年度生まれで、ユース代表時代から一緒に戦ってきた彼らには長い時間をかけて積み重ねた信頼関係がある。ロシアまでは中盤でコンビを組んだ経験が少なかったものの、「航との関係性は上がってきている」と柴崎も手ごたえを口にしていた。それも追い風となったことだろう。

 12月末の国内合宿の後、年末年始のオフの間に発熱し、UAE入りが遅れるというトラブルに見舞われたが、守田英正の負傷離脱でボランチの選手層が薄くなったこともあって、遠藤の必要性はさらに高まった。

 それを如実に感じさせたのが、1月9日の初戦・トルクメニスタン戦だ。体調回復途上の背番号6はスタメン回避となり、冨安健洋と柴崎が先発。「ボランチをやるのはアビスパ福岡以来」と不安そうに語った冨安とヘタフェで試合出場機会が少なかった柴崎には、どうしてもギクシャク感が垣間見え、日本苦戦の一因となっていた。幸いにして大迫勇也の2発と堂安律のダメ押し弾によって3−2の逆転勝利を収めたものの、ボランチの関係改善は急務の課題と位置付けられた。

 このことは、かつて気配りに長けたボランチとして代表で活躍していた森保監督も痛感したはずだ。続く13日の第2戦・オマーン戦では、すぐさま遠藤を先発に戻して柴崎とともに起用。中盤の安定化を図った。その期待に遠藤は迅速に応え、最終ラインと前線との間のスペースを埋め、相手DF裏に抜ける南野にスピーディーな縦パスを出す。前半24分の南野の決定機は、遠藤がお膳立てしたもの。「今日は結構前半から縦に入っていたと思うし、グラウンダーで最後の1対1を作ったり、裏のボールを意識しながらやれていた。あとは継続すること」と本人も前向きに発言していた。結果自体は1−0とほろ苦いものになったが、ボランチには落ち着きが感じられた。

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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