中日・又吉が歩んできた「裏街道」 タフネス右腕を作り上げた幾多の転機
“影”にこそ又吉の人生が現れる
プロ入りまで“裏街道”を進んできた又吉克樹。来季は巻き返しを誓うシーズンとなるが自分を信じて進んでいく 【写真=BBM】
高校生で甲子園の大観衆を沸かせて注目を集める選手もいれば、野球ファンにしか気づかれないようなドラフト下位指名から名球会入りを果たした選手もいる。ある者は「早熟」と表現され、ある者は「晩成」と言われる。十人十色。だから、人生は面白い。誰からも評価されていない日々が続いても、いつの日か誰もが称賛する選手になることはできる。そんな歩み方をしてきたのが又吉だった。
14年に中日に入団すると、1年目からブルペンに欠かせない右腕として脚光を浴びる。主に中継ぎでプロ入りから5年連続で40試合以上に登板。イニングまたぎもいとわず、先発としても完封勝利をマークするタフネスぶりが最大のセールスポイントだ。17年には稲葉篤紀監督率いる侍ジャパンにも選出。ここでも中継ぎとしてチームに貢献し、アジア王者(24歳以下の大会「アジアプロ野球チャンピオンシップ2017」)に輝いた。
ただ、“光”の部分だけを見ていては、又吉の歩みは理解できない。無名の公立高から地方大学、四国アイランドリーグ(IL)。ひっそりと“裏街道”を進んでいた“影”にこそ、又吉の人生がある。
高校入学時は身長158センチ
浦添市にある又吉家の次男として克樹が誕生したのは1990年11月4日のことだった。3500グラムを超える体重。当時は両親も目を丸くするほど大きな赤ん坊だった。しかし、明らかな偏食が体の成長を遅らせたのかもしれない。小さなころから主食はお菓子。これでは、たとえ高い運動能力を有していたとしても顕在化しない。
足は遅い。パワーもない。小学校の入学と同時に入った軟式チーム・仲間ジャイアンツでは、6年生でようやくスタメンに食い込むことができたものの、下位打線が“定位置”。中学では試合に出ることすらできなかった。それでも、負けん気だけは人一倍だった。
最初の転機が訪れたのは、高1の冬のことである。当時の上原健監督から「ピッチャー、やったことあるか?」と聞かれると、間髪入れずに「あります」と答えた。
今になって明かせば、真っ赤なウソである。ただ、もし「ありません」と答えていたら、そのあとに「JAPAN」のユニフォームを着ることはなかったかもしれない。中学時代は内野手としても試合に出ることができなかった「マメ」は、障子の紙一枚ほどの薄さであっても、野球選手として試合に出られる可能性に飛びついたのだ。
「ハッタリでした。スピードでも、パワーでも、誰にも勝てない。でも、とにかくチャンスが欲しかった。何でもいいから、という思いでした」
与えられた役割は、ほとんどが打撃投手。1日に200球を投げることも珍しくない。それを2週間も続けたこともあった。この高校時代の経験は、現在の又吉につながる分岐点にもなった。
「良いボールをちゃんと投げ続けようとすると、オーバースローだと疲れてしまうので難しかった。楽にストライクを投げようとしていたら、自然とヒジが下がる。気がついたら、サイドスローになっていました。あと、投げまくっていたことで肩のスタミナはついたと思います」
ストライクを投げられるサイド右腕は、どんなチームであっても貴重だ。西原高でも3年夏の最後の公式戦でマウンドに上がることができた。自らの野球人生をかけた「ハッタリ」が開いた、投手としての扉。そうは言っても、直球の最速はわずかに117キロ。この時点でもまだ、無名高の名もなき一野球部員に過ぎなかった。