中日・又吉が歩んできた「裏街道」 タフネス右腕を作り上げた幾多の転機
運命の出会いと偶然の岐路
侍ジャパンには2015年の欧州代表戦(写真左から2番目)、17年のアジアプロ野球チャンピオンシップで選出経験がある 【写真=BBM】
「先生になれる制度があったので。野球は楽しめればいいかな、というぐらいの感じでした」
地方リーグとはいっても、140キロを超える投手はゴロゴロいる。その中で最速120キロにも満たない自分が通用するなどとは、いくら自信があっても口にすることはできなかった。教員免許を取得し、大学卒業後は故郷の沖縄に帰る。そうすれば、指導者として野球に携わることもできるかもしれない。極めて現実的な選択だった。
ここで運命の出会いに恵まれる。田村忠義監督(当時)は日本鋼管福山時代に2度のドラフト指名を受けた経歴を持つサイド右腕。高校時代は自己流で打撃投手を務め続けていた又吉にとって、これ以上は望めない指導者だった。
さらに、偶然の岐路も訪れる。入学からわずか1カ月しかたっていない5月のことだ。チームにいた先輩投手が故障し、“サイド右腕”というピースがポッカリと空いた。田村監督の焦りにも似た声がグラウンドに響いた。
「サイドで投げられるのはいないか!」
とても大学レベルの試合で通用する力を蓄えてはいなかった。それでも、沖縄から出てきた18歳の新入部員は「できます」と手を上げた。又吉の記憶では、1年生で同タイプの投手は自分を含めて2人いた。もう1人は右ヒジの手術を受けた直後。こんな絶好機は2度と訪れないかもしれない。すぐに飛びついた。
「僕は一番ヘタだったんです。でも、試合で投げたい。これは戦力になるチャンスだと思いました。あのときに誰も故障していなかったら、今の僕はありません」
背水の覚悟を見せた又吉。確かにこの時点でも実力でライバルたちに勝るものは少なかったかもしれない。粗削りもいいところではあった。ただ、田村監督の目には「めったにいない素材」と原石に映ったという。腰が地面に対して水平に回転する投球フォームは、サイドスローにとって何よりも重要な要素だった。
体の開きを抑えるポイントなどをアドバイスすれば、スポンジが水を吸うかのごとく身に付いていく。さらに、偏食で遅れていた体の成長も重なった。体力を強化する練習も必死に消化。お菓子も断ち、栄養はそのまま肉体に染み込んでいく。
2年の秋に恩師が退任しても、又吉の動き出した成長は止まらない。「日々、上達しているのが実感できて楽しかった」。4年になると、身長は180センチに伸び、球速は144キロを計測した。西原高で「マメ」と呼ばれていたことなど誰も知らない環境で、過去の自分と決別。プロを目指す――。そう口に出しても笑われないレベルの投手になっていた。
真っすぐを磨き抜いた1年間
香川オリーブガイナーズ時代の又吉克樹 【写真=BBM】
「2年以内にNPBに行けなかったら、沖縄に帰って先生になろうって。そう思っていたんです。できるのか、できないのか、それをハッキリさせるために四国を選びました」
右肩上がりの曲線を描いていた又吉の成長は、プロを目指す若者たちのギトギトした空気の中でさらに速度を上げる。現役時代に広島東洋カープで活躍した西田真二監督のもとで鍛え上げられ、NPBでも通用する投手としての英才教育を受けた。140キロを超える直球を投げるサイド右腕。このままでも四国ILでは十分過ぎるほど通用する。しかし、それでは最高峰の門はたたけない。高校時代からの“かわしグセ”を矯正するため、ひたすらに直球に磨きをかけることになった。
西田監督の古巣、広島との練習試合では「真っすぐしか投げさせない」と相手ベンチに伝わるように叫ばれ、1軍クラスも名を連ねた打線と力勝負を挑まざるを得ない状況を作られたこともあった。オール直球。それでも、本塁打を浴びてもいい――と開き直って投じたボールは、外野フェンスを越えなかった。
「打者の名前は覚えていません。でも『あれ? 二塁打にしかならないんだ』と。自分の直球に自信を持てるキッカケになりました。自信があるから思い切り腕を振れる。球速も上がっていきました」
最速が148キロまで上がった又吉の名は、NPBスカウトの間にも広まっていった。球威とスピードを兼ね備えた直球があり、変化球も生きる。四国ILでは敵なしの存在になるのに、そう時間はかからなかった。13年、1年目でリーグ最多の13勝を挙げ、わずかに4敗。防御率はリーグ2位の1.64。リーグの年間MVPにも選ばれた魅力あふれるサイド右腕のもとには、NPB11球団から調査書が届くまでになった。
いろんなことを言われても「自分が納得すればいいんです」
2014年に四国IL史上最高位のドラフト2位で中日入団(前列右)。同期の1位は鈴木翔太(前列左)だった 【写真=BBM】
細い手足を機能的に動かす独特の投球フォームを武器に、評価を裏切ることなく1年目からブルペン陣の一角として重宝された。67試合でイニング数を大きく上回る104奪三振。防御率2.21と文句なしの数字を残し、ルーキーイヤーを終えた。
快進撃は翌年以降も続いた。3年連続で60試合以上に登板。18年までの5年間で通算282試合、100ホールドを記録し、チームの屋台骨を支える投手として確固たる地位を築いた。先発としても、17年には6月6日の千葉ロッテ戦で完封勝利をマーク。球界随一のサイド右腕としての地位を築いた。
人に劣る部分があるから、あきらめるのか。劣勢を認め、覆す努力をするのか。この分岐をどちらに進むかは、自分自身の意志でしかない。もし、どこかで一度でもあきらめていたら……。
「いろんな人にいろんなことを言われました。でも、自分が納得すればいいんです」。自分の成長曲線は、いつか上がり始める。そのことを信じ続けた結果が、現在の又吉克樹である。
(文=安藤岳雄(スポーツジャーナリスト))