2009年 史上最も長丁場のシーズン 前編 シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」
「広報というよりも人間として」ソリさんから学んだ
当時広報を担当していた遠藤は「広報というよりも人間として、ソリさんからはいろいろ学ばせていただきました」と振り替える 【宇都宮徹壱】
「北京五輪が終わって、報告書を9月くらいまで書いていたのかな。その後オシムさんが倒れて、体制も変わったからJFAの仕事も終わって、12月くらいまではずっと引きこもりみたいな生活をしていた。外に出ると、いろいろ言われるしさ(苦笑)。そうしたらカミさんに『どこか外国にでも行ってきたら?』って言われて。それで以前から気になっていた、ドイツのホッフェンハイムの練習に1カ月行ったんだ」
これと前後して、当時湘南の強化部長だった大倉智より、監督就任のオファーが届く。最初は断っていたものの、大倉が何度も熱心に声をかけてくれたこと、自身も湘南のOBであったこと、そして何より、前年5位だったチームに自分が考えるスタイルを植え付けて昇格させたい──。そんな、指導者特有の野心が背中を押した。
「ただし、あのサッカーをやるためには、右のMFとセンターFWが足りてなかった。右のMFについては、寺川能人をトライアウトで見つけた。当時34歳だったけど、新潟で一緒にやってきたから実力は分かっていたしね。あとはセンターFWだけど、これが難しかった。開幕直前になって、ようやく見つけたのが練習参加していた田原豊。加入発表が開幕前日で、次の日にスタメンで出した。これでいいスタートが切れると思ったね」
09年の湘南の戦いについては、このあと振り返るとして、ここでオフ・ザ・ピッチの話に触れておきたい。反町が監督として湘南に戻ってきて、変化したことのひとつに「記者の囲み取材が立ちから座りになった」というものがある。教えてくれたのは、湘南で長年にわたり広報を担当している遠藤さちえである。
「ソリさんから『立ちだとメモをとるのに大変だから、記者さんに椅子を用意しろ』って言われたんですね。私に指示するだけでなくて、ソリさんも一緒に運んでくれたんですよ。メディアの方々やスポンサー、サポーターなどへの配慮を常に忘れない方でした。そういえば一度、背もたれのある椅子をソリさんに、ない椅子をメディアの方に用意したら、すごく怒られたこともありました(苦笑)。そんな感じで私は、広報というよりも人間として、ソリさんからはいろいろ学ばせていただきましたね」
<後編につづく。文中敬称略>