クラブ内にあったレアル・マドリーの答え ジダン体制の再現に期待 ソラーリ新監督

迷走したロペテギの後任選び

レアル・マドリーの新監督にはBチームの監督であったサンティアゴ・ソラーリ(写真)が就任した 【写真:ロイター/アフロ】

 レアル・マドリーのフレン・ロペテギ体制は、ワールドカップ初戦の2日前にスペイン代表監督を解任されるという悪い印象とともにスタートし、発足時以上に悲惨な形で終焉(えん)を迎えることになった。

 ロペテギは世界最高レベルのアタッカーをそろえながら、8時間以上も無得点が続くなど散々な結果を残した末、わずか4カ月でクラブを追われることになった。クラブは解任を発表した声明文の中で「8人ものバロンドール候補を擁するチームの質と今季ここまでの成績の間に大きなギャップがある」と解任の理由を説明している。

 ロペテギの後任は誰になるのか。彼が解任されるまでの数週間、多くの紙面を占め、ラジオやテレビで議論の的となってきたこの疑問に対し、レアル・マドリーのフロレンティーノ・ペレス会長は明確な答えを見いだせずにいた。

 ペレスはフットボールクラブもいち企業と同様に経営することが正しいと考え、監督の人選においても独自の価値観に基づいて行ってきた。ゆえに既存のチームとは相いれないプレースタイルやメンタリティーの持ち主を連れてくることも珍しくはなかった。

 今回もペレスは第一にアントニオ・コンテの招へいを試み、さらに多くの主力選手と対立し、クラブの対外的なイメージを著しく悪化させたジョゼ・モウリーニョを呼び戻す可能性まで探っていた。そこにロベルト・マルティネスのような異なるタイプの監督を求めていた選手たちの意見は全く反映されていなかった。

新監督ソラーリの横顔

ソラーリ(写真中央)は、かつてレアルでジダン(左)らとともにプレーしていた 【写真:ロイター/アフロ】

 結局ペレスはコンテとの交渉をまとめることができず、シーズン中の監督交代における最も無難な解決策を選んだ。レアル・マドリー・カスティージャの監督を務めていたサンティアゴ・ソラーリをトップチームに引き上げる暫定処置である。

 ソラーリはフットボール界に深く関わる家系の男だ。叔父のホルヘは1960年代に名をはせたMFで、66年のワールドカップイングランド大会に出場。父のエドゥアルドは70年代にボランチとして活躍した。いとこのナタリアは元アルゼンチン代表MFフェルナンド・レドンドの妻であり、甥っ子のアウグストはラシン・クラブ(アルゼンチン)でプレー。弟のエステバンはロサリオ・セントラル(アルゼンチン)の下部組織で監督を務めている。

 フットボール界においては珍しいタイプながら、ソラーリは昔から慎重に言葉を選び、よく考えてから発言を行う男だった。現役時代は多くの同僚が住んでいた郊外のラ・モラレハではなく、マドリーの中心街に居を構え、時間があれば街を散策し、美術館を訪れる生活を楽しんだ。

 引退後は数年に渡ってスペインの一般紙エル・パイースにコラムを寄稿し、フットボール界で起こる現象についての興味深い考察によって度々読者を驚かせた。レアル・マドリーで下部組織の指導を始めた後も、バルセロナのシンボルであるリオネル・メッシへのリスペクトを隠すことはなかった。

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著者プロフィール

アルゼンチン出身。1982年より記者として活動を始め、89年にブエノス・アイレス大学社会科学学部を卒業。99年には、バルセロナ大学でスポーツ社会学の博士号を取得した。著作に“El Negocio Del Futbol(フットボールビジネス)”、“Maradona - Rebelde Con Causa(マラドーナ、理由ある反抗)”、“El Deporte de Informar(情報伝達としてのスポーツ)”がある。ワールドカップは86年のメキシコ大会を皮切りに、以後すべての大会を取材。現在は、フリーのジャーナリストとして『スポーツナビ』のほか、独誌『キッカー』、アルゼンチン紙『ジョルナーダ』、デンマークのサッカー専門誌『ティップスブラーデット』、スウェーデン紙『アフトンブラーデット』、マドリーDPA(ドイツ通信社)、日本の『ワールドサッカーダイジェスト』などに寄稿

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