ソフトB・本多が現役生活を振り返る 常に全力疾走を求めた13年間

週刊ベースボールONLINE

地元・福岡で走り続けた本多雄一。鷹のスピードスターがユニフォームを脱いだ 【写真=BBM】

 10月13日、今年も両リーグのレギュラーシーズンが終わりを告げた。それと同時に自らのプロ野球人生に幕を下ろした男たちがいる。笑顔が印象的な背番号「46」は、タイトルにも自分のプレーにも貪欲に、決して妥協することなく、13年を駆け抜けた。

 最後の最後まで、福岡ソフトバンク・本多雄一は本当に笑顔だった。しかし、その笑顔の裏には隠された葛藤があった。2012年に痛めた首は年々“鷹のスピードスター”を苦しめ、ついには大きな決断をさせた。

首痛と家族への思い

──10月6日の引退試合(西武戦、ヤフオクドーム)から、数日が経ちました。

 試合を終えて、セレモニーを終えて、あらためて「引退したんだな」という実感があります。10月6日は13年間の思いをかみしめながら試合をさせてもらいました。

──通算1313試合に出場。引退の最後の試合は、これまでの試合とは違いましたか。

 これまでの試合はやはり準備を含めて試合に臨む気持ちというか、気を張っていました。引退試合は、最後くらいは思う存分、野球というものを楽しみたいなと思って試合に臨みましたね。プロ生活を13年間やらせてもらって、心から「うわー、今楽しいな」と思うことってそうなかったんです。でも最後の引退試合は、心からありがとうの気持ちを込めて野球に向き合いたいな、楽しくやりたいなと。

──いかがでしたか。

 ものすごく楽しみましたよ!(笑)。チームメートの喜びも一緒に共感できましたし、守っているときも、打っているときも、走っているときも“楽しい”をかみしめながらやれました。

──第4打席で三塁打、第5打席では二塁打。見ているほうとしては、まだまだやれるのでは、と感じてしまいました。

 周りからは「まだできるんじゃないか」と言ってもらって。そういうふうに見えてもおかしくないと思いますし、自分でもあれだけ最終戦でやれた。三塁打、二塁打、盗塁も。記録にはならなかったですけど(3回、次打者・上林誠知への死球)、ああやってスタートを切れたことは自分にとっても良かったです。しかし、まだできる中でも、自分には首の痛みというものがあって……。(引退を)決断するにあたって、すごく迷いもありましたね。

──引退を決断する一番の要因となった首の痛みは今もありますか。

 今は出ていないですが、プロ野球選手というのは毎日仕事がある。首に関してはケアが必要ですし、ケアは毎日やっていますが、したから出ないというわけでもないんですよね。やっぱりふとしたとき、万全な状態でもたまに出たりしますし、疲れがたまってくると出やすいというのもあります。これに関しては本当に自分でもいつ起こるか分からないです。

──最初に首を痛めたのは2012年でしたよね。

 12年に痛めてから4年間くらいは痛みが出たり出なかったりという状態が続き、痛みが出れば薬を飲んで、というのを繰り返してきました。しかし、昨年くらいからですかね……。今までとは違った痛みが出てきたんです。そうした中で思うように動けない自分がいた。それで決断に至りましたね。

──野球が続けられないような痛みもあったのですか。

 昨年も2回くらいありました。今年は3回くらいですかね、少なくとも。電気が走るんですよ。そうなると、もう野球どころじゃないですし、私生活を過ごすだけできつい。野球をやりたい気持ちはもちろんありましたが、もう“野球ができる体”ではなかったというのが正直なところです。

──引退を決断したのはいつだったのでしょう。

 ギリギリまで考えました。それこそ「まだやれるんじゃないか」と自分でも思いましたし。同時に首の痛みのことを考えると、また痛みが出て長い期間野球ができないのは自分の中では「苦しい」と思いました。その葛藤はありましたね。

──最初に相談したのは。

 妻です。(引退の)思いは今年出たわけじゃなくて、昨年くらいから出てきていました。妻は理解してくれていて、ずっと話し合ってきました。今年はまた再発というか、首に痛みが出る回数が多かったんです。それこそ妻に「また首痛が出た」と言うのがいやになるくらい。それだけ自分自身の気持ちが沈んだ時期はありましたね。

──引退会見でもセレモニーでも奥さまの話をされるときが一番感極まっているように見えました。

 実際、家族を養っていかないといけないとなると、どうしても子どもの顔も浮かぶし、妻の顔も浮かぶ。家族に対する思いと、野球ができない自分の精神的な苦しみ。申し訳ないという思いもありましたが、妻と話し合いながら出した結果がこれ(引退)でした。

──けがと向き合っていくうえで、プレースタイルを変えようなどと考えたことは。

 試合にも100パーセント、練習にも100パーセントやらないと気が済まなかった自分がいた。プレースタイルに関しては本当に目に見えない微妙なところを変えたことはありましたが、大幅に変えることはなかったですね。

──それはご自身のポリシーとしてでしょうか。

 もちろん。“常に一生懸命やる”ということが自分の持ち味だと思っていたので、そこを変えるということは納得いかない。加減するというのは絶対にイヤだった。常に100パーセントでプレーすることを心がけていた中で、首のけがが一番邪魔をしましたね。

──100パーセントでプレーできないならば引退。だから、引退会見でも「後悔はない」とはっきり口にされたんですね。

 手を抜くことって一番簡単なんですけど、逆に気持ちを入れるってすごく難しいことだと思うんですよ。自分は常に気持ちを入れて野球をやってきた。手を抜くという言い方が合っているかは分かりませんが、自分に関して加減をするというのはあり得なかった。やはり野球選手として「いいプレーを見せたい」「歓声を浴びたい」というところからも100パーセントを求めたのかもしれないですね。

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