巨人・陽岱鋼、数々の逆境と反骨精神 「勝負しないと成長につながらない」
中田翔がいたおかげで「強くなった」
日本ハム時代は2学年下の中田翔と切磋琢磨しながらプロ野球選手としての礎を築き、リーグ屈指の外野手に成長した 【写真:BBM】
早くから素質の一端を見せ始めていたが、決して順風満帆ではなかった。09年に外野手にコンバートされた後、なかなか1軍から声のかからない日々が続いた。この年の出場はわずか15試合に終わった。
「周囲からは『若い、若い』と言われていましたけど、3、4年目で1軍に定着しなければいけないと焦りが出ていた。何が悪いかも分かりませんでした。正直、野球をやめようと思ったこともありました」
同じように、才能に恵まれながら2軍で下積みを続けている選手がいた。2学年下で07年のドラフト1位で入団した中田翔だ。
2人は強化選手に指名され、秋や春のキャンプでは日が暮れても居残ってバットを振り続けた。「秋から春にかけて<野球→寝る→野球→寝る>という感じでした」。切磋琢磨しながら、時には悩みを打ち明け合った。そんなライバルの存在は大きかった。
「入ってきた瞬間から『すごいな』と思っていたけど、差をつけられたくない一心でやってきました。2人でチームを引っ張って行こうと話していた。彼は自分よりその思いが強かった。翔がいたおかげで、自分は強くなれたと思います」
10年に自己最多の109試合に出場すると、11年には初めて規定打席に到達して打率2割7分4厘、6本塁打、36打点、19盗塁をマーク。中田とともに、チームに欠かせない存在となっていた。
スターとしての素質が発揮されたのが、一流選手ばかりが集うオールスターだ。ファン投票で初選出された12年のオールスター第1戦に1番・センターで先発出場すると、初打席初本塁打となる先頭打者本塁打を放ち、敢闘賞を獲得。第3戦は先制3ランを含む3安打4打点の大活躍でMVPに輝いた。14年は連日の3安打猛打賞で2試合連続の敢闘賞を獲得し、ホームランダービーでも優勝のおまけ付き。大舞台に強い“お祭り男”のイメージも定着した。
12年はリーグ唯一の全試合フルイニング出場。13年は47盗塁をマークして自身初の盗塁王に輝き、12〜14、16年にはゴールデン・グラブ賞を獲得。12年のリーグ優勝、16年の日本一に貢献した。リーグを代表する選手の1人となった陽に、その秋、転機が訪れる。
FAで巨人入り…陽が抱く2つの夢
巨人移籍後は激しい競争にさらされるも「これが僕の野球人生」と意に介さない。2020年の東京五輪出場、背中を追う金子誠コーチと同じ20年間プレーすることを夢に抱き、これからも前を向く 【写真:BBM】
「みんなは自分がレギュラーだと思っていたかもしれないけれど、自分はそう甘くないだろうと思っていた」
実際、下半身のコンディション不良で出遅れて87試合の出場だった昨季に続き、今季も故障の影響もあって86試合(10月5日現在)の出場にとどまる。外野陣は経験豊富な長野久義、勝負強い打撃が武器の亀井善行、長打力のあるゲレーロに加え、スピードのある重信が打撃でも成長の跡を見せている。試合に出られない状況はつらいが、激しい競争をむしろ、陽は歓迎している。
「これが僕の野球人生。人と勝負するのが好きだし、勝負しないと成長につながらない。そういう気持ちでいつもやってきました」
そんな陽には2つの夢がある。1つは2020年の東京五輪に出場することだ。08年の北京五輪ではメンバーに選ばれず、「あれから10年以上が経過して、自分がどれくらい成長したか分かると思う。日本で行われる五輪で日本と対戦したい」。もう一つは、日本ハムで入団時から背中を追い続けてきた金子誠(現日本ハム内野守備走塁コーチ)と同じ20年間プレーすることだ。
「これからも強い気持ちで勝負していく。このままじゃ終われないから」
強い反骨精神で数々の逆境を乗り越えてきた勝負師の野球人生には、続きがある。
(文=西村海(読売新聞東京本社運動部)、写真=井田新輔、BBM)