阪神・岩崎、もがく期間を進化の礎に 「人のために」ストイックに歩む野球人生
数々の「ぶっ倒れエピソード」
「中学校時代の軟式野球部コーチが、高校監督時代に甲子園に出たこともある人で。あるとき『毎日オレの家まで走ってこい』と言われまして……。中学生だった3年間ずっと、雨の日も風の日も台風のときも走り続けましたよ」
自宅からコーチの家を経由する7、8キロのルート。サボっていない証拠として、必ず「●月●日●時●分」と時間を記した紙を投函する約束になっていた。翌朝、コーチが新聞の朝刊と一緒に紙切れをチェックする毎日。どれだけ勉強や練習で疲れていても休むことなく完走し、「最後まで頑張り続けたのはオマエだけだ!」と驚かせたという。
男4人兄弟の次男。「自由にやらせてもらってきた」と言う割には、昔から自分を追い込み過ぎるタイプだった。「多分、暑さに弱かったんでしょうね」。夏にぶっ倒れた回数は数え切れない。一番古い、おぼろげな記憶は小学校のころ。学区内のソフトボール大会で「張り切ってしまって」外野を守って熱中症気味になってしまった話はまだかわいらしいほうだ。清水東高、国士舘大時代の「ぶっ倒れエピソード」は今思い返しても、あまり笑えない。
「どんな練習にしても、倒れる前に止めたら、もうちょっとできたんじゃないかと思ってしまう。それが嫌で、どうしてもやり過ぎてしまう性格だったんです……」
高校時代は1度、救急車で運ばれたこともある。学校に1週間泊まり込む夏の野球部合宿中。どの高校でもよくある朝から夕方までの練習後、夜のミーティング中にフラッと倒れ、気がつくと病院のベッドに寝ていた。
「自分だけ脱水症状になってしまったんでしょうね。ちょうどしかられるミーティングだったので、後から『オマエが倒れたおかげでミーティングが終わってラッキーだったよ』と感謝されましたけどね」
大学に入ると、さらに歯止めが利かなくなった。東京・町田キャンパス内にある野球場は人工芝で照り返しが強い。涼む場所も少ない中、朝から夕方までとにかく走りまくった。「同級生の同じ左投手にすごく練習熱心な選手がいて、一緒に頑張っていました」。このころにはもうコーチに性格を見透かされており、何度となく「オマエは無理すんな、止めとけ!」とストップをかけられた。それでも我慢できない。
「耐えられている人がいるのに、余計に負けたくなくて」。熱中症で倒れては体温が39度前後まで上がり、病院で点滴を打っては復帰して……。そんな日々が当たり前の学生生活だった。
「今思えば、ただ単に自分の体調管理がダメだっただけなんだと思いますけどね」。本人は苦笑いで当時を自戒するが、ストイック過ぎる練習スタイルには背景がある。
野球ができることに感謝
エリートコースから程遠い道のりも闘争心に火をつけたのかもしれない。中学3年時は最速120キロ前半程度。飛び抜けた存在とはいえず、180センチあった身長と左利きという特性に頼る必要があった。「なんとか社会人になっても野球が続けられたらいいな」。そんな思いで進学校の清水東高校に入学。とてもプロをイメージできる環境ではなかった。
同校といえば、全国制覇の経験もあるサッカー強豪校。日本代表も多く輩出しており、FC東京の長谷川健太監督、サッカー解説者の武田修宏、鹿島の内田篤人らも卒業生になる。硬式野球部が使う練習場もショート後方はサッカー部のスペース。フリー打撃は全員が三塁線に並んでライト方向へ打ち、レフトに打球が上がった場合は「上! 上!」と声掛けしていた。頻繁にサッカーボールが転がってくるグラウンドで奮闘したが、3年夏は静岡大会2回戦で早々に敗退した。
国士舘大でも2年春から4年秋までは東都二部リーグ暮らし。主戦場だった神宮第二球場は、たまにゴルフボールが転がっていた。「野球で使わないときは、ゴルフの打ちっぱなしにも使われている球場なので。試合前練習に入ろうとしたら、まだボールが残っているときもありましたね。早く神宮球場のマウンドに戻りたいという一心で投げていたのは、いい思い出です」。
それでも心が折れたことは1度もない。マウンドに立たせてもらえるだけで感謝──。野球ができる喜び、それはプロ5年目を迎えた今も忘れていない。