1996年 「百年構想」誕生秘話<後編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

時代の変化に左右されないキャッチコピー

「百年構想」は時代の変化に左右されないキャッチコピーとなって今も生き続けている 【宇都宮徹壱】

 この東大阪の写真に関しては、後日談がある。コンペで使用した写真がストックフォトだったので、「新たにオリジナルを撮影しよう」という話になり、スタッフは撮影ポジションを探索する。ようやくたどり着いたのが、生駒山にある有料道路付近。しかし撮影当時と比べて、明らかにビルの数が増えている。どうにも風情が感じられないため、ストックフォトの素材をそのまま本番でも使用することになったという。これまた、22年後に初めて明かされるエピソードである。

 かくして96年3月16日のJリーグ開幕に合わせて、新聞や雑誌に電通が手がけたキャンペーンが次々と掲載されるようになる。ただしメーンのキャッチコピーは「あなたの町にも、Jリーグはある。」であり、「百年構想」はひっそり添えられる脇役でしかなかった。その後、B案は1年間限定で終了。以後は「Jリーグ百年構想」に、角田が新たに考案した「スポーツで、もっと、幸せな国へ。」が加えられたコピーが定着する。そしてそれは、世紀を越えて今に受け継がれているのである。

 Jリーグの広報スタッフとして、コンペに深く関わった藤ノ木は「川淵さんから、特に何か言われた記憶はないですね」と回想する。当の川淵は、「僕は当初から『百年かけても(やり遂げる)』と言っていたからね。電通がそれを聞いていたのかは知らないけれど(笑)」と語っていたので、それなりに満足はしていたようだ。一方、コピーの発案者である電通の杉谷は「僕も『百年』というのは、ずっと先の未来というイメージでいましたから、最近の『四半世紀が過ぎて』みたいな言い方には少し抵抗を覚えます」と本音を漏らす。

 電通とJリーグが「100年」ではなく、漢数字の「百年」にこだわっていた理由は、まさにそこにあった。本稿・前編の冒頭で触れたように、Jリーグの理念は100年間の時限プロジェクトではない。しかし年月が経過するにつれて、百年構想に対する人々の考え方にも多少のゆらぎが見られるようになったのも事実。今回の取材でも「100年経ったら、百年構想は使えなくなってしまうのでは?」と危惧する声も何度か耳にした。とはいえ、それは杞憂(きゆう)でしかないようにも感じられる。

 初代チェアマンの川淵が抱いてきた理念を、プロのクリエイターたちが見事に具現化して生まれた百年構想。それはJリーグの関係者やファンのみならず、サポートする企業や自治体の間でも広く共有され、キャンペーンから20年以上が経過しても古びることなく受け継がれている。百年構想は、単にキャッチコピーとしての完成度が高いだけではなく、時代の変化に左右されない強度も併せ持っていた。ゆえに、Jリーグが100周年を迎える2093年になっても、その理念はきっと生き続けていることだろう。今回の取材を終えて、あらためてそう確信した次第だ。

<この稿、了。文中敬称略>

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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