連載:未来に輝け! ニッポンのアスリートたち
江の島の海で「とにかく金メダルを」 セーリング土居愛実が目指す3度目の五輪
「ジュースに釣られて」始めたセーリング
セーリングで3度目の五輪出場を目指す土居愛実 【スポーツナビ】
人類愛の金メダル――、こう称えられたエピソードがある。1964年に開催された東京五輪でのことだ。
その日、ヨット競技の会場となった江の島ヨットハーバーには、風速15メートルに及ぶ強風が吹き荒れていた。故障や沈没するヨットが続出した。そんな中、順調に先頭集団を追っていたのが、スウェーデンのラース・キエル、スリグ・キエルの兄弟だ。ところが、前を走っていたオーストラリアのヨットが事故に遭い、一人の選手が海に投げ出された。それに気付いたキエル兄弟はすぐにレースを中断。コースを逆走して、転落した選手の救出に向かったのだ。
オーストラリアの選手は無事に助け出され、キエル兄弟はレースを再開。しかし、失った時間はあまりに大きく11位という結果に終わった。それでも2人は、レースよりも人命を優先したことを「海の男として当然のこと」と笑顔で語ったという。国境を越えたスポーツマンシップは賞賛され、当時の新聞でも大きく取り上げられた。
“美しきセーラーの血”を受け継ぐのが、レーザーラジアル級で東京五輪を目指す、25歳の土居愛実だ。
セーリングを始めたのは小学2年の時。2歳上の兄(男子470級リオデジャネイロ五輪日本代表の土居一斗)の練習について行ったのがきっかけだ。
「ジュースに釣られて(笑)。お兄ちゃんのコーチに『ジュースを20本あげるからセーリングをやろう』と言われたんです。オレンジジュースとりんごジュース。毎週日曜日が練習だったので、交互に持ってきてくれました」
海の上での記憶はあまり残っていない。どちらかというと恐怖心。やめたいと思ったことは何度もある。それでも、スキルが上がっていくに従って、ヨットに乗ることが楽しくなってきた。小学4年の頃には「ナショナルチームに入って海外に行きたい」と思うようになった。
飯島コーチ、土居は「頭がいい選手」
16年のリオデジャネイロ五輪には、兄の一斗(左)とともに出場した 【写真:中西祐介/アフロスポーツ】
ナショナルチームの飯島洋一コーチは、高校生だった土居に「ラジアルという船があるから乗ってみなよ」と勧めた人物だ。セーリング界のエースについてこう話す。
「頭がいい選手ですね。僕自身、今までいろいろな選手と接してきたけど、言っても聞かない人がいれば、言ったことが伝わらない人もいる。また、考えてやろうとしている人と、考えているけどやらない人もいる。(土居は)言われたことを自分で考え、それを実践できる選手です」
土居が補足する。
「ヨットはほぼ感覚。波も違うし、風も違いますから。同じ状況というのがない。それに対応していくんです。船をどうフラットにしていくか。それを言葉で表現するのは難しいですね」
世界での立ち位置を知った、過去2度の五輪
12年ロンドン、16年リオと五輪2大会に出場。そこで味わったのは悔しさだった 【スポーツナビ】
そして、2012年の世界選手権で日本人最高の52位になり、ロンドン五輪の出場権を獲得する。結果は31位。世界での立ち位置を知ることになった。
「言い方は悪いですが、ロンドン五輪の出場はラッキーな面もありました。『五輪に出たい』と強く思って出場したわけではありません。でも、その後の4年間は、リオデジャネイロ五輪(以下、リオ五輪)のためにどうするかをずっと考えながら活動してきました。そこにかける思いは強かったですね」
スピードの強化に加え、風の見方を学んだ。気象も一から勉強した。ヨットをうまく操るために体を大きくするなど、生活のすべてがセーリングを中心に回っていた。
しかし、リオ五輪の結果は20位。ロンドン五輪から順位は上げたが、納得のいく結果ではなかった。本来の力を発揮していれば、もっと上位に行けたはずだ。悔しさが募った。
「力を出し切れませんでした。頭が真っ白になって、風が見えないし、どう変わっているかも分からない。よく言うじゃないですか? 五輪には魔物がいるって。まさにそうだと思って。4年に一度の、その日のためだけに練習を重ねてきて、緊張もするし、今までなかった状態にも陥る。そのため、今年からメンタルトレーニングを取り入れて、どうしてそういう状況に陥ったのかを検証しているところです」