エンゼルス大谷の兄が感じた東京ドーム 初出場のトヨタ自動車東日本に全国の壁

楊順行

都市対抗常連を下しての第1代表

エンゼルス大谷の兄・龍太が所属していることで注目を集めたトヨタ自動車東日本。東芝相手に先制したものの、投手陣が打ち込まれ、初めての都市対抗は7回コールド負けに終わった 【写真は共同】

「残念です。創部7年目でやっと都市対抗にきたのに、全国の壁は思ったより厚くて厳しいものでした」

 第89回都市対抗の出場32チーム中唯一の初出場・トヨタ自動車東日本(東北・金ケ崎町)は、出場チーム中最多の7回優勝を誇る東芝(西関東・川崎市)に1対12、7回コールドで玉砕した。初回に1点を先制して強豪をあわてさせながら、2回以降にくり出した投手陣がことごとく強力打線につかまった。先発全員の14安打を許し、2ホーマーを浴びての敗退に、ふだんは軽妙な三鬼賢常監督のトーンも下がりがちだ。

 チーム設立は、2012年にさかのぼる。当初は関東自動車工業の硬式野球部だったが、同年の7月、3社の統合によりトヨタ自動車東日本に改名した。都市対抗予選は、初めて出場した13年から2次予選に進出。だが第1どころか第2代表を決めるトーナメントでも、決勝までなかなか進めなかった。

 それが今季は、第1代表決定トーナメントの準決勝でJR東日本東北、決勝でも日本製紙石巻といずれも常連を下してすんなりと第1代表での出場が決定。「7年目で(都市対抗に)出られることがミラクルです」という三鬼監督自身、「うれしくて眠れない日が続きました」。

初の春季キャンプが飛躍のきっかけ

 なにしろ、創部時は部員わずか13人。夏はまだしも、厳しい冬は練習場所の確保さえ容易ではなく、廃校になった小学校が室内練習場がわりだ。そういうチームの初出場が話題になったのは、創設時からのメンバーに大谷翔平(エンゼルス)の7歳上の兄・龍太コーチ兼外野手がいたこともある。地元・岩手の前沢高時代は3番を打ったが、甲子園出場はない。

 卒業後は地元企業に就職し、水沢市(現・奥州市)を拠点に活動するクラブチームの水沢駒形野球倶楽部で野球を続けた。四国アイランドリーグの高知ファイティングドッグスへ移った3年目に、地元に新たに誕生する企業チームから誘いがあった。それがトヨタ自動車東日本だった。

 だが、毎日午前中に4時間勤務し、専用グラウンドもない練習環境である。オープン戦では、大学生に敗れることもめずらしくないなど、試合のたびに敗戦が続いた。それでも、翌年には林竜希ら2期生が8人入社し、都市対抗予選にも参戦と、徐々にではあるが社会人チームとしての格好がついていく。この林は広島の出身で、「冬は見たことのない雪のなかで、長靴を履いて走るのも初めての経験でした」と笑う。

 飛躍のきっかけは今季、2月中旬から静岡県裾野市で行った初めてのキャンプだ。同市にある工場で午前中に勤務し、午後からはグラウンドでの練習に取り組んだ。地元にいたら、3月にならなければ不可能な土の上の練習が、温暖な地で1カ月前倒しできたわけだ。

 例年なら「都市対抗予選が終わり、8月から調子が上がってくる」(三鬼監督)ところだが、始動が早まった分、うまく予選にピークをもってこられたのだ。結果、7年目の東京ドーム。三鬼監督が「選手には”気を引き締めろ”と言いながら、まずは自分が引き締めなくてはという状態でした」というのもわかる。ただ――全国大会は甘くなかった。

侍ジャパン投手から先制点も…

 設立時からのメンバーで、チームを支えてきた阿世知暢が先発。初回こそ、武器のシンカーが効いて無失点でスタートしたが、2回には甘くなったストレートを強振されて逆転2ランを被弾。「ヒットかと思った打球がホームランになった」(阿世知)というのが、社会人トップレベルの東芝打線の怖さか。

 3回にも、同様に真っすぐを3ランされて大量リードを許し、継投した吉橋幸治、佐々木大和らもKO。都市対抗で実績のある西村祐太(JR東日本東北から補強)、小島康明(きらやか銀行から補強)がなんとか試合を落ち着かせたが、初陣は今大会初の7回コールド負けという悔しいスタートとなった。

 東北代表として、ほかのチームに申し訳ない……と三鬼監督は言うが、ただ、手応えも感じていた。

「相手の侍ジャパン社会人代表・岡野(祐一郎)投手に手も足も出なかったわけじゃないし、芯を食った打球もありました。もちろん、あのクラスをしっかり打てるようになるにはまだまだ足りませんが、選手にはいい薬になったと思います」

弟・翔平からLINEで「頑張れ」

 開幕直前に弟から「頑張れ」とLINEでメッセージをもらった大谷は岡野から1安打し、「東京ドームでプレーしたのは初めて。こんなにお客さんが入っていると、守備のときの声も聞こえませんね」。それでも、2007年夏の甲子園で広陵(広島)が準優勝したときの2年生レギュラーだった林は、「全国大会はそのとき以来。すごい楽しかった」と前を向き、ほかに大澤永貴は花巻東時代、大谷翔平とともに11年夏、12年春の甲子園を経験するなど、選手はそろいつつある。

 大谷兄が、こう締めくくった。

「1年でも長くプレーしたいし、都市対抗で優勝するぐらいの気持ちでやらないと」

 強くなるのは、これからだ。
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著者プロフィール

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。高校野球の春夏の甲子園取材は、2019年夏で57回を数える。

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