WBCから1年、中日・岡田の復活ロード 手術80針に涙も「この左手でできることを」

週刊ベースボールONLINE

左手に80針「泣きました」

投手の生命線とも言える指先の感覚。違和感から次第に痛みへと変わっていった 【写真:BBM】

 開幕後のある日、自分の左手を何気なく見ていたら、人さし指と中指が真っ白になっていたんです。「これはマズイかな?」と思い、気にしながら投げていると、今度はしびれてきて、最後には痛みも感じるようになり投げるどころではなくなってきてしまいました。

 それでも登板は続いて、ボールは行かないし、内容も結果も散々。「WBCの影響で疲れが溜まっているんだろう?」と周りは気づかってくれるんですが、自分の中では「いや違う。そろそろ限界かもしれない」と思うようになっていましたね。

 で、5月14日の松山・坊っちゃんスタジアムでのヤクルト戦のとき、当時のデニー友利コーチに準備するように言われて肩を作っていたんですが、限界でした。「すみません、行けません」と伝え、左手を見せて判断を委ねました。すぐにベンチにも情報が行き、登板を回避。翌15日に登録を抹消されました。このときには手術を受ける決断を僕の中では下していました。

 最初に診てもらった病院では手術はあまり薦められないと言われていたんです。ピッチャーにとって一番大切な手(指)を切るわけですから。感覚が元のように戻る保証はないと。確かにこの先生の話も理解できます。でも、松山で見た自分の左手の普通ではない白さ。血行を良くする薬をもらって飲んでもいましたが、これはメスを入れない限り良くなりはしない。もし手術をしてダメだったら、それで終わろう、引退しようと。

 誤解してほしくないのは選手生命をかけた手術への決断ですけど、そのときの感情は、決して後ろ向きではなかったということです。変に前向き。ドラゴンズで200試合以上(その時点で220試合)投げてきたし、僕みたいな選手がWBCにも出場できた。これで終わったなら、それでいいじゃないか。でも、最後の悪あがきとして、やるだけやってみようと。かなり腹は決まっていましたね。手術は登録抹消から3週間後の6月7日。素早い動きだと思いませんか?

 ちなみに、血行障害の原因については、スタートは末端冷え性のような軽度なもの。手が冷えている状態でボールを投げると、指先にストレスがかかりますから、血管などが潰れてしまい、余計に血が行かなくなるという悪循環に陥っていたと考えられるそうです。

 左手の人さし指、中指、薬指の側面と手のひらにメスを入れ、すべてで80針くらいのものだったとお医者さんには言われています。専門の信頼できる先生だったので、お任せしたんですが、さすがにそれを聞いてひきましたし、術後、自分の左手を見たときは泣きました。

感覚は戻らない、でも――

 手術は無事に成功したが、繊細な指先の感覚を取り戻すのは至難の業だという。復帰まで1年に及ぶ壮絶なリハビリの様子を聞こう。

登録抹消からちょうど1年後の5月15日、復帰登板を果たし、80針縫った左手を力強く握りしめた岡田(右端) 【写真:BBM】

 ギプスが外れ、抜糸までに2週間。抜糸直後の左手はまだパンパンに腫れ上がっていて、「ドラえもんの手みたい」と思っていました。ここからリハビリが始まるのですが、まず動かせるようになるまでがひと苦労。ワシづかみのような形で固定して縫っているので、完全に手を開くまでにかなりの時間を要しました。そこから一本一本の指を曲げ伸ばし……。

 ハッキリ言って、1年後に1軍のマウンドで投げているなんて、想像もできませんでしたね。

 グラウンドでは歩くところからスタートし、ようやくボールを握れたのが7月中ごろ。ネットスローから始めました。握った感覚はそれまでとはまるっきり別物。極端な話、初めての感触といってもいいかもしれません。段階を踏んでパートナー相手にボールを投げ始めたころ、正直、絶望しかなかった。

 術後、左手は動かせるようになり、温かさも戻ってきて、投げられるようになりました。でも、1軍のマウンドで投げていたあのころの指先の感覚だけは戻りませんでした。

 リハビリの期間、チームメートの「抑えてうれしい」「打たれて悔しい」という感情に触れる中で、自分はそのどちらも味わえず悲しいだけ。投げられるようになってしばらくは手術を受けなければよかったかなと後悔した時期もありました。

 練習に顔を出すのも嫌になってしまった時期もあったのですが、そんな僕を前向きにさせてくれたのが家族の存在であり、当時のトレーニングコーチだった北野一郎さんと、トレーナーの清水頼哉さんです。かなりショボンとなっていたと思うのですが、前向きに、明るく接してくれて、いい方向に導いてくれました。

復活途上にある岡田。絶望から脱し「今できることを積み重ねていきたい」と前を向く 【写真は共同】

 投げている感触、実際に僕の指先から放たれるボールはズタズタのボロボロでしたけど、実戦に投げて17年を終えたいと思い、秋のフェニックスリーグで実戦復帰をしました。18年に復活するための最低限のステップだと思っていたからです。

 年が明け、キャンプは2軍スタート。リハビリも終わり、ユニホームを着て競争できるスタートラインに立ちました。でも、スタートを切っていたのは気持ちだけで、体はまだまだついてきません。前はこうだったのに、このボールが投げられない。できない。そのギャップにしばらくは苦しめられましたね。

 当時、藤井淳志さんも2軍にいて、お話をする機会があり、「過去のいい自分を理想として、目指すのは間違いではないけど、今できることを見つめて、一つひとつクリアしていかないとダメだよ」ということを聞いて、確かにそのとおりだなと。少し吹っ切れる自分がいました。

 現在も投げている指先の感覚は昔のものと一緒ではありません。でも、いまはそれで仕方がないんだと考えられようになりました。この左手でできることをするんだ、と。

 プロの選手として球団に契約してもらっている以上は、結果を残すこと、それを積み上げていくことしかないですから。ただ、1軍での登板を重ねるうちに、状態が上がってきているのが分かるからこそ、再び良かったころの自分の姿を追いかけ始めている自分がいます。こういうボールを投げていた、もっとこうすることができていた、と。

 でも、これはある意味いいことだとも思うんです。2軍で絶望に暮れていたころとは違いますし、1軍に上がって、投げて、自信も生まれてきています。いまだったら、あのボールが投げられるかもしれない(と思える)。もちろん、すぐには無理だということも理解していますが、近いうちにいつかは、とポジティブになれますよね。

 これからの目標は1軍の戦力として今できることを最大限に発揮し、143試合目まで完走することです。せっかく上がってきたのに、落ちたくない。とはいえ、この1年は手術をした指とうまく付き合っていくことも大切です。客観的に自分を見て、ベストな形を模索しながら、今できることを積み重ねていきたいです。

 5月15日の復帰登板後、7試合に登板した岡田だったが、6月1日の北海道日本ハム戦で満塁弾を被弾。翌2日に登録抹消となった。1軍完走は叶わなかったが、2軍で今できることを積み重ね、最高の状態で再昇格する日を目指している。

(取材・構成=坂本匠、写真=高塩隆、井田新輔(インタビュー))

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