苦難続きのウクライナ・サッカー界 再建を目指す“英雄”シェフチェンコ
監督は「ウクライナの矢」シェフチェンコ
日本が27日に対戦するウクライナの監督はミランなどで活躍したシェフチェンコだ 【写真:ロイター/アフロ】
現在、ウクライナ代表監督を務めているのが、かのアンドリー・シェフチェンコである。ACミランなどで華々しく活躍し、「ウクライナの矢」として称賛されたシェフチェンコは、2012年の自国開催のユーロ(欧州選手権、ポーランドと共催)を花道に、現役を退いた。その後、選挙で落選したり、プロゴルファーを目指したりと回り道をしたが、16年7月からウクライナ代表の指揮を執っている。
親善試合を控えた3月20日、シェフチェンコ監督は記者会見に臨んだ。その動画を見て、「おや?」と少し驚いた点がある。協会幹部らがひとしきりウクライナ語であいさつした後、シェフチェンコ監督が不意にロシア語で発言を始めたのである。ナショナリズムの横行する今日のウクライナでは、公の場ではウクライナ語で話すのがならわしであり、ロシア語で話すのは非愛国的と見なされるにもかかわらず、である。
現実にはウクライナ東部や、シェフチェンコの生まれ育った首都キエフでは、日常会話はロシア語の方が優勢なのである(ディナモ・キエフのチャントを聞けば分かる)。政治家や文化人なら無理にでも得意ではないウクライナ語で話すところだが、アスリートであるシェフチェンコにはそこまで言語にこだわる姿勢はなく、国民もまた“英雄”シェフチェンコであれば容認するということだろう。ウクライナの理想と現実、建前と本音をかいま見た思いがした。
W杯予選はグループ3位で敗退
こうした状況を受け、代表監督に起用されたのがシェフチェンコであった。上述の12年大会の第1戦で最後にゴールを挙げたのは、シェフチェンコその人であり、ウクライナはそのレジェンドに代表の再建を託したわけである。
当然のことながら、シェフチェンコ監督に課された至上命題は、18年W杯ロシア大会の出場権を獲得することであった。しかし、欧州地区予選でグループIに入ったウクライナは3位にとどまり、プレーオフにも進めなかった。グループIは、ドングリの背比べのような力関係であり、ウクライナが勝ち抜けるチャンスはそれなりにあった。しかし、アウェーのアイスランド戦で試合を支配しながら、一瞬の隙を突かれた失点で敗れるなど、ボールを握れる割には勝負弱いという体質を露呈した。
14年の政変以降、国難が続く
W杯出場はならなかったが、代表チームの指揮官は引き続きシェフチェンコに任された 【写真:ロイター/アフロ】
もっと言えば、世界的なスターが代表チームを率いることが、14年の政変以降続く国難で傷付いたウクライナ国民の心を、癒している面もあるのかもしれない。シェフチェンコ監督が、18年のW杯出場というミッションを達成できなかったにもかかわらず、引き続き代表チームの指揮を任されているのは、そのあたりに理由がありそうだ。
後述するが、現在のウクライナ代表の2枚看板は、アンドリー・ヤルモレンコとイェウヘン・コノプリャンカという左右のウイングプレーヤーである。ともに1989年生まれの2人が、脂の乗り切った年齢で迎えるロシア大会に、ウクライナとしてはぜひとも出ておきたかった。
というのも、ウクライナではソ連邦崩壊後の90年代に社会の混乱と経済の低迷が続き、出生率も低下したため、90年代に生まれた世代に厚みがないのである。ユーロもW杯も「広き門」に変わりつつあるので、今後ウクライナが2大大会に出場できるチャンスはあるかもしれないが、いずれにしてもウクライナのサッカーはこれから人口的要因により低迷期に入っていくのではないかと、個人的には危惧している。
国内リーグは危機的状況
しかし、国内リーグの実情は、危機的である。当国では14年に政変が発生し、その混乱に乗じてロシアがウクライナ領クリミアを併合。さらに東ウクライナのドンバス地方では内戦が続いている。政治・経済が混迷し、国内リーグはその影響をモロにかぶっている。
ウクライナのトップディビジョンであるプレミアリーグは、13−14シーズンまでは16チームで開催していた。しかし、クリミアを本拠地とするクラブを失い、また地方クラブの経営破綻が相次いだことで、14−15シーズンからは14チーム、16−17シーズンからは12チームでのリーグ戦となっている。
ウクライナ・プレミアリーグの観客動員数は、一頃までは拡大傾向を辿り、11−12シーズンには過去最高の1試合当たり1万2628人を記録した。しかし、14年の政変以降は急減し、16−17シーズンには4303人にまで落ち込んでいる。
UEFAの最新リポートによれば、10年度から16年度にかけて、ウクライナ・プレミアリーグの1クラブ当たり平均収入は49%低下し、これはUEFA加盟諸国の中で最悪のパフォーマンスだった。