2007年 浦和レッズのACL制覇<前編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

ホルガー・オジェック、2度目の浦和監督就任

06年にリーグと天皇杯の2冠を達成した後、クラブを任されたのは2度目の監督就任となるオジェックだった 【写真:YUTAKA/アフロスポーツ】

 浦和に誤算があったとすれば、06年にリーグと天皇杯の2冠を達成したブッフバルトが、家庭の事情で帰国せざるを得なくなったことだろう。慰留が不可能であると察したクラブは、すぐさま後任人事に着手する。白羽の矢が立ったのは、95年と96年の2シーズン浦和を指揮した経験を持つ、同じドイツ人のホルガー・オジェックであった。

「当時、オジェックさんはFIFA(国際サッカー連盟)のテクニカルディレクターだったんですが、レッズに大変愛着のある方でした。それで当時の(ゼップ・)ブラッター会長を説得して、それで『日本に行っていいよ』ということになったんです。ブラッターさんの許しが出なかったら、(FIFAを)出られなかったと思います」

 そう語るのは、当時浦和で通訳をしていた山内直である。山内とオジェックの関係は94年までさかのぼる。当時、浦和の強化担当者がドイツで監督を探していたときに通訳として帯同。複数の候補と面談を行い、オジェックに決定した際に「君が通訳をやるんだろう?」という新監督の一言で、そのまま専任通訳に収まった。11年ぶりに再会したオジェックは、しかし選手との接し方に明らかな違いがあったと山内は語る。

「95年の時は、先生と生徒という感じでしたね。ああしなさい、こうしなさい、という。それが07年のときは、選手から質問をされても『それは自分で考えなさい』というスタンスに変わっていました。最初に就任した時は、最下位だったチームでしたが、今回はチャンピオンになっていたわけですから当然ですよね。オジェックさん自身、『優勝チームを引き継ぐことは非常に難しい』ということは、よくおっしゃっていました」

 一方の選手は、新監督をどう受け止めていたのだろう。中心選手のひとりだった鈴木啓太は、「ギドさんに比べると、オジェックさんはより戦術的な印象がありましたね」と振り返りながら、自身に与えられた役割についてこう説明する。

「監督に言われたのは、『周りの選手たちを動かして、オーガナイズしろ』ということでした。まあ、僕にしてみれば普通のことでしたけれど、ギドさんの自由さに慣れていた選手は、ちょっと窮屈に感じたかもしれない。だから僕としては、逆にみんながやりやすいようにするにはどうすればいいか、ということは常に考えていました」

 では、初めてのACLに臨むことについてはどうか。これについて問われると、鈴木は「よく理解していなかったのが正直なところですね」と苦笑いする。

「クラブの本気度は、選手補強を見れば明らかでしたし、よく理解していたつもりです。ただ、Jリーグを戦いながらアジアを戦う大変さとか、ACLがどういう大会なのかはまったくイメージできていませんでしたね。それは浦和が、というよりも、当時のJリーグでプレーしている選手のほとんどが、そんな感じだったと思います」

<後編につづく。文中敬称略>

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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