「まだやれる」前ヤクルト飯原の決断 地元栃木での挑戦と一つの心残り
球団からはフロントのポストを用意されたが、地元栃木での現役続行を選択した飯原 【写真は共同】
女性シンガー、BoAの『Aggressive』が神宮の杜に軽快なサウンドを響かせ、そこにウグイス嬢のアナウンスを挟んでスタジアムDJであるパトリック・ユウ氏の「レッツゴー、ヤスシー!」のコールが、絶妙のタイミングでかぶさる──。東京ヤクルトの飯原誉士が打席に入る際のこの一連の流れは、長い間「神宮名物」になっていた。
「相手の選手から『おっ、レッツゴー・ヤスシ』と声を掛けられることもありました」
飯原はそう言って笑う。しかし、今年からはもうその光景は見られない。昨秋、飯原は12年間在籍したヤクルトを戦力外となったからだ。
「1軍にほとんど上がってないですし、結果も出せてないし……。いつかは来ることですし、心の準備はしてたんですけど、いざ言われるとちょっとショックだなっていうのはありましたね」
17年はわずか17試合の出場
昨年は久しぶりにその痛みから解放され、シーズンにかける思いは強かった。だが、1軍からは声が掛からないまま、5月に右ふくらはぎを痛めて離脱。7月にようやく1軍に上がったものの、わずか17試合の出場で打率1割8分8厘、打点はプロ入り以来、初めてのゼロと、結果を残すことはできなかった……。
「15年にヒザのケガをしてから16年、今年とやってきた中で、一番状態がいいんです。走ることもできるし、まだやれると思っていますから。だったらまだ(現役で)やってみたいっていう感じですね」
飯原がそう話していたのは、12球団合同トライアウトを前にした昨年11月のことだ。まだ34歳。ここ数年はケガもあって出番に恵まれず、満足のいく成績は残せなかったが、衰えたとは思っていない。だから、球団にフロントのポストを用意されても、受けることはできなかった。
大きかった先輩からのアドバイス
5歳になる愛娘に、まだまだユニホーム姿を見せたいとの思いもあった。さらに高津臣吾2軍監督や、現役引退から5年ぶりに古巣に復帰した宮本慎也ヘッドコーチといった、先輩からのアドバイスも大きかったという。
「高津さんには『自分も(NPB、MLBのほか韓国、台湾、独立リーグと)いろいろなところでやってすごく勉強になった。(現役を)辞めないで、頑張って続けるって決めたらやってもいいし、辞めて違うことをやってもいい。自分で選んだことが正解だから、夢に向かって頑張れ』って。慎也さんにも『恩返しとかそういう道を考えているなら、いろいろなところで勉強しておいたほうがいいんじゃないか。そこはお前の選択でいいんじゃないか』って言っていただきました。周りからみたら、『そういう(フロントの)仕事があるんだったらやっとけよ』って思う人もいたでしょうけど、自分の考え方に近い方々からそう言っていただいて、すごく励みになりましたね」