「まだやれる」前ヤクルト飯原の決断 地元栃木での挑戦と一つの心残り

菊田康彦

球団からはフロントのポストを用意されたが、地元栃木での現役続行を選択した飯原 【写真は共同】

♪♪Let’s say I love you it’s so easy♪♪

 女性シンガー、BoAの『Aggressive』が神宮の杜に軽快なサウンドを響かせ、そこにウグイス嬢のアナウンスを挟んでスタジアムDJであるパトリック・ユウ氏の「レッツゴー、ヤスシー!」のコールが、絶妙のタイミングでかぶさる──。東京ヤクルトの飯原誉士が打席に入る際のこの一連の流れは、長い間「神宮名物」になっていた。

「相手の選手から『おっ、レッツゴー・ヤスシ』と声を掛けられることもありました」

 飯原はそう言って笑う。しかし、今年からはもうその光景は見られない。昨秋、飯原は12年間在籍したヤクルトを戦力外となったからだ。

「1軍にほとんど上がってないですし、結果も出せてないし……。いつかは来ることですし、心の準備はしてたんですけど、いざ言われるとちょっとショックだなっていうのはありましたね」

17年はわずか17試合の出場

 栃木・白鴎大から、大学生・社会人ドラフト5巡目で2006年にヤクルト入団。翌07年にはサードのレギュラーに定着すると、背番号が「46」から「9」に変わった08年は、本来の外野に戻ってセ・リーグ17位の打率2割9分1厘、同6位の28盗塁をマーク。10年には自己最多の15本塁打を放つも、15年に左ヒザの後十字靭帯を損傷してからはヒザの痛みに悩まされた。

 昨年は久しぶりにその痛みから解放され、シーズンにかける思いは強かった。だが、1軍からは声が掛からないまま、5月に右ふくらはぎを痛めて離脱。7月にようやく1軍に上がったものの、わずか17試合の出場で打率1割8分8厘、打点はプロ入り以来、初めてのゼロと、結果を残すことはできなかった……。

「15年にヒザのケガをしてから16年、今年とやってきた中で、一番状態がいいんです。走ることもできるし、まだやれると思っていますから。だったらまだ(現役で)やってみたいっていう感じですね」

 飯原がそう話していたのは、12球団合同トライアウトを前にした昨年11月のことだ。まだ34歳。ここ数年はケガもあって出番に恵まれず、満足のいく成績は残せなかったが、衰えたとは思っていない。だから、球団にフロントのポストを用意されても、受けることはできなかった。

大きかった先輩からのアドバイス

「カッコいい引き際もあったと思うんですよ。ヤクルト一筋で頑張ってきて、そこで踏ん切りをつけて(フロント入りを)受けるのも一つかなとは思ったんですけど、将来的に大学(白鴎大)で指導者として恩返しをしたいという気持ちがあって。だから他の球団で、違う環境で野球がやれたら自分の経験にプラスになるんじゃないかと思って、妻の後押しのもと(現役続行を)決めました」

 5歳になる愛娘に、まだまだユニホーム姿を見せたいとの思いもあった。さらに高津臣吾2軍監督や、現役引退から5年ぶりに古巣に復帰した宮本慎也ヘッドコーチといった、先輩からのアドバイスも大きかったという。

「高津さんには『自分も(NPB、MLBのほか韓国、台湾、独立リーグと)いろいろなところでやってすごく勉強になった。(現役を)辞めないで、頑張って続けるって決めたらやってもいいし、辞めて違うことをやってもいい。自分で選んだことが正解だから、夢に向かって頑張れ』って。慎也さんにも『恩返しとかそういう道を考えているなら、いろいろなところで勉強しておいたほうがいいんじゃないか。そこはお前の選択でいいんじゃないか』って言っていただきました。周りからみたら、『そういう(フロントの)仕事があるんだったらやっとけよ』って思う人もいたでしょうけど、自分の考え方に近い方々からそう言っていただいて、すごく励みになりましたね」

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著者プロフィール

静岡県出身。地方公務員、英会話講師などを経てライターに。メジャーリーグに精通し、2004〜08年はスカパー!MLB中継、16〜17年はスポナビライブMLBに出演。30年を超えるスワローズ・ウォッチャーでもある。著書に『燕軍戦記 スワローズ、14年ぶり優勝への軌跡』(カンゼン)。編集協力に『石川雅規のピッチングバイブル』(ベースボール・マガジン社)、『東京ヤクルトスワローズ語録集 燕之書』(セブン&アイ出版)。

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