母を亡くした呂比須ワグナーの覚悟 集中連載「ジョホールバルの真実」(16)

飯尾篤史

母親の悲報にも、呂比須ワグナーはマレーシアにとどまり、日本代表として戦うことを選んだ 【写真は共同】

 悲報が届いたのはイラン戦を4日後に控えた11月12日だった。
 ガンに侵され、危篤状態に陥っていた呂比須ワグナーの母親が亡くなったのである。
 岡田武史は再び帰国を促したが、呂比須はマレーシアにとどまり、日本代表として戦うことを選んだ。
 もっとも、最愛の人を亡くしたショックに加え、数日前まで食事が喉を通らないほど扁桃腺を腫らしていただけに、本調子とは程遠い状態だった。
〈自分の調子が悪いってことは、すぐにわかりましたね。思ったことがぜんぜんできなくって、気持ちだけが走って身体がついていかないことが多かったんですよ。普通ならカウンターのときには“このボールは絶対負けない”“このヘディングは絶対勝つ”“このゴールは絶対決める”とか思うんですけど、うまくいかない。でもコンディションが悪くても、“何とか日本のためにやろう”という気持ちが強かったから、僕が負けないように自分のできるプレーをしたいって強く思ってました〉(『週刊サッカーダイジェスト』1997年12月24日号)

 コンディションが悪くても自分にできるプレー――それは、おとりになるということだった。
 イランの監督は同胞のブラジル人である。呂比須の存在を警戒することは容易に想像できた。自分が動けば必ずマークがついてくるはずだから、それで誰かがフリーになるはずだ、と呂比須は考えた。
 実際、城彰二の同点ゴールが決まったとき、呂比須はファーサイドに流れてゴール前にスペースを作っていた。中田英寿のクロス、城のヘディング、呂比須のおとりの動きによって生まれたゴールだったのだ。

 岡田は試合前日、同点で終盤を迎えたときの戦い方を選手たちに告げていた。
 後半30分を過ぎて劣勢だったら、延長戦に持ち込む。しかし、日本が主導権を握り、押せ押せの状況だったら、勝負に出る――。
 この日の展開は後者だった。ゲームを支配しているのは日本で、チャンスの数も圧倒的に日本が多い。一方、イランが疲弊しているのは明らかで、逃げ切りに失敗した精神的ダメージは計り知れなかった。
 だが、勝負を懸けるにしても、交代枠を使い切ってしまうのはあまりにリスクが大きい。それゆえ、あくまでもピッチにいるメンバーで、日本は決着をつけにいった。

 後半35分、名波浩のFKに秋田豊が頭で合わせたが、わずかに左へ逸れた。
 イランも日本の隙を逃さない。
 アリ・ダエイのシュートは秋田がブロックしたが、こぼれ球をホダダド・アジジがシュート。ボールは幸運にも枠から外れ、たまらず岡田がタッチライン際で怒鳴り、叱咤(しった)する。
 後半38分にはペナルティーエリア内で城が相手DFのタックルにふっ飛ばされたが、ホイッスルは吹かれない。
 そして、アディショナルタイムが2分30秒を経過したころ、延長戦突入を知らせるホイッスルが鳴った。

<第17回に続く>

集中連載「ジョホールバルの真実」

第1回 戦士たちの休息、参謀の長い一日
第2回 チームがひとつになったアルマトイの夜
第3回 クアラルンプールでの戦闘準備
第4回 ドーハ組、北澤豪がもたらしたもの
第5回 焦りが見え隠れしたイランの挑発行為
第6回 カズの不調と城彰二の複雑な想い
第7回 イランの奇策と岡田武史の判断
第8回 スカウティング通りのゴンゴール
第9回 20歳の司令塔、中田英寿
第10回 ドーハの教訓が生きたハーフタイム
第11回 アジジのスピード、ダエイのヘッド
第12回 最終ラインへ、山口素弘の決断
第13回 誰もが驚いた2トップの同時交代
第14回 絶体絶命のピンチを救ったインターセプト
第15回 起死回生の同点ヘッド
第16回 母を亡くした呂比須ワグナーの覚悟
第17回 最後のカード、岡野雅行の投入(11月12日掲載)
第18回 キックオフから118分、歴史が動いた(11月13日掲載)
第19回 ジョホールバルの歓喜、それぞれの想い(11月14日掲載)
第20回 20年の時を超え、次世代へ(11月15日掲載)

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著者プロフィール

東京都生まれ。明治大学を卒業後、編集プロダクションを経て、日本スポーツ企画出版社に入社し、「週刊サッカーダイジェスト」編集部に配属。2012年からフリーランスに転身し、国内外のサッカーシーンを取材する。著書に『黄金の1年 一流Jリーガー19人が明かす分岐点』(ソル・メディア)、『残心 Jリーガー中村憲剛の挑戦と挫折の1700日』(講談社)、構成として岡崎慎司『未到 奇跡の一年』(KKベストセラーズ)などがある。

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