ロッテ・井口、引退惜別インタビュー 誰よりも野球を愛した21年間――
9月24日の引退試合で21年間の現役生活に幕を下ろした井口 【写真:BBM】
昨年オフには引退を伝える
引退を球団に伝えたのは昨年のオフで、表明はあのタイミングになりましたが、自分の中ではずいぶん前から2017年シーズンを最後にしようと思っていました。ボロボロになるまでやり続けるという選択肢もありますけど、動ける間にやめたいという思いがあったし、選手以外の次のステップに進まなければいけないと考えていましたから。
自分としては突然、引退を表明して、残り1、2試合で終わりというのは、これまで応援してくれたファンに対して失礼だという思いがありました。1試合でも多く自分のプレーを見てもらいたい、地方の方にも来てもらいたい。実際、引退を表明したあとは、それまで以上に大きな声援をもらって、やりがいになりましたね。
最後にヤフオクドームへ行ったとき(8月27日)にはグッとくるものがありました。相手の先発が復帰戦の和田(毅)だったことも巡り合わせを感じましたし、ファンの歓声もびっくりするくらい大きくて。試合後には選手、コーチが並んでセレモニーのようなこともしていただき、ありがたかったですね。8年間やらせてもらって、育ててもらった場所ですし、一番ホームランを打っている球場。でも、「なんで今は(テラスが付いて)こんなに狭いんだ。当時からこの広さなら40本くらい打てたな」なんて思ったりもしましたけど(笑)。
引退試合までの1カ月はロッテ浦和球場(2軍本拠地)でバットを振り込んでいました。若手にもっと頑張ってほしい、チャンスを与えてあげたいという思いもありましたね。若手が先発で出ても、5、6回で代打を送られてしまったりする。それでは若手に責任感は生まれないし、最後は井口、福浦(和也)みたいになっていたので、それではいけないなと。個人的にも2軍というのはプロに入ってからの1、2年しか経験していなかったので、今のファームではどんな練習をしているのか、1軍で結果が出ていない選手や若手がどういう思いで取り組んでいるのか。そんな話をしながら、若い選手たちと同じメニューをこなすことができたのはすごくいい経験になりました。今後に生きる1カ月になったと思います。
引退試合はマリンフェスタで本来なら青ユニフォームの予定だったのですが、球団が選んでいいと言ってくれたので、ピンストライプにしてもらいました。やっぱりマリーンズと言えばタテジマですから。ただ、みんなが背番号「6」を着けてくれたのはサプライズでしたね。メジャーではジャッキー・ロビンソン・デーなどで全員が同じ背番号を着けることがありますが、日本でもこんなことができるんだって。試合前は「次は誰が6に似合うかな」なんて話をしていました(その後、監督としても背番号6に)。
最初にこのチームで「6」を背負うことになったときは、重い背番号だと思っていました。僕にとってロッテの6番は、やはり落合さん(博満)さんのイメージがすごく強い。マリーンズと言えば、ミスター・ロッテの8番か、6番。そういう番号を着けさせてもらったという思いがずっとありました。
最後のホームランは「昔のような感覚」
引退試合の9回、2点を追う場面で起死回生の同点2ランを放った 【写真:BBM】
浦和でいい“キャンプ”を送ることができたので、打撃の感覚は上向いていたのですが、1カ月も実戦から離れていたのは不安材料でした。でも、第1打席でレフト前にヒットを打つことができたので不安はなくなった。「当たるものだな」と思いましたね(笑)。「右方向に大きい打球が打てるように」ということはずっと口に出していたので、そこからはファンの方も「ホームラン」コールを送ってくれました。
6回の打席から逆算すると、最後は9回のツーアウトで回ってくる順番だった。「最後のバッターになるのはさすがにまずいね」なんて話をベンチでしていたら、9回に清田(育宏)がヒットを打ってくれて。今度は後ろの(中村)奨吾と「ゲッツーもまずいね」なんて言いながら打席に入りました。「うまくつなげたらいいな」くらいの感じだったんですけど、打った瞬間はこの何年かなかったような手応えで。ボールをうまく押し込めたというか、昔のような感覚でしたね。今年は右方向の打球が失速していたので「捕られるかな、でも感覚はよかったから(フェンスを)越えてくれるかな」と思いながら走っていました。
右方向への打球は昔から自分の持ち味でした。青学大時代もそうですけど、小中高のころから右方向に大きいのを飛ばしていたので、自分の持ち味は自分で分かっていた。でもプロに入って、「ボールを強くたたかなければいけない、ホームランの期待に応えなければいけない」と思って自分のバッティングを崩してしまったこともあります。この1、2年は試合に出る機会も少なくなり、代打で結果を欲しがるような打撃になることもあった。求められる役割が変わる中で、打撃のスタイルも変わりつつありました。
でも、最後は右方向への強い打球という自分のスタイルで打ちたいと思ったし、浦和で1カ月やってきたことがそのまま、それ以上のものを出すことができた。「やっぱりダメだったな」って思われるよりは、「まだできる」って言われながらやめたかったので、ちゃんと打てて終われたのは良かったですね。