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MotoGPで「34」が永久欠番の理由
アグレッシブに一時代を築いたシュワンツ
アグレッシブな走りで人気を得たシュワンツ(#34)
アグレッシブな走りで人気を得たシュワンツ(#34)【Mike Cooper/Allsport/Getty Images】

 多くのスポーツカテゴリーにおいて、多大な影響を与えた選手の背番号が、選手の引退後に永久欠番となることがある(事故などで亡くなった場合も永久欠番になることがあるが、今回はそれを除く)。


 たとえば日本のプロ野球なら、巨人の背番号3(長嶋茂雄)や背番号1(王貞治)が有名で、米国のメジャーリーグならば、全球団共通欠番の背番号42(ジャッキー・ロビンソン)や、アストロズとレンジャーズの背番号34(ノーラン・ライアン)などがある。他にもNBAならば、ブルズの背番号23(マイケル・ジョーダン)や背番号33(スコッティ・ピッペン)、ニューヨーク・ニックスの背番号33(パトリック・ユーイング)など、漫画『スラムダンク』好きな世代には有名な背番号が並ぶ。そしてNFLならばフォーティナイナーズの背番号16(ジョー・モンタナ)と背番号8(スティーブ・ヤング)は広く知られていて、NHLならば全球団共通欠番に背番号99(ウェイン・グレツキー)がさんぜんと輝く。


 そしてモータースポーツの世界に目を向けると、ロードレースの最高峰クラスであるMotoGPにおいて、現役時代の功績を称えられて永久欠番となったのがゼッケン番号34、ケビン・シュワンツのものだ。

ヒーローでありアイドル的存在

 ケビン・シュワンツは1964年6月19日、米国・テキサス州生まれ。当時、ロードレースの最高峰であったGP500に1986年に初出場。88年からフル参戦し、95年にGP500からの引退を決めた。GP500では通算25勝、51回の表彰台獲得、29回のポールポジション獲得。そして93年に世界王者となっている。


 しかし、これまでにも数多くのグランプリライダーがGP500やMotoGPに参戦してきたし、記録の面ではシュワンツ以上のライダーは簡単に見つかるだろう。しかし、現役時代のシュワンツ人気は、F1におけるアイルトン・セナであったり、NBAにおけるマイケル・ジョーダンや、ゴルフのジャック・ニクラウスらに肩を並べるほどの、まさにヒーローであり、アイドル的存在だった。


 そんな圧倒的な人気を呼んだのは、彼の人々を魅了したアグレッシブなライディングスタイルだ。レーススタイルは、最後までバトルを続けて競り勝つ形で、多くの場合で結果が「勝利もしくは転倒」というものだった。というのも、乗っているマシンはホンダやヤマハと比較すると、パワーに劣ると言われていたスズキ。つねにアグレッシブに行かなければ勝負にならなかったと言える。しかも、同時代を戦ったライバルたちには、エディ・ローソン(ヤマハ/84、86、88年世界王者、ホンダ/89年世界王者)、ワイン・ガードナー(ホンダ/87年世界王者)、ウェイン・レイニー(ヤマハ/90〜92年世界王者)らがいて、なかでもレイニーとは世界選手権に進む前から米国で競い合っていた最大のライバルであり友人だった。

ライバル、レイニーとの激闘

 引退後のレイニーは、シュワンツの速さの秘密に関してこのインタビューで答えている。


「初めてケビンを見たのは85年、彼がAMAスーパーバイクに出場していたシアトルでのことだった。名前も聞いたことなかったのだけど、彼がヨシムラのバイクで、バックストレートのターンオフでグリップを失ったんだ。99%のライダーは転倒を回避できないのに、彼は見事に回避した。だから、彼が速いことには驚かなかった。あんな危ない状況を回避できる腕前があるのだから、速いに決まっている。その後、AMAスーパーバイクで競うようになり、彼のお陰で僕はさまざまな経験ができたし、お互いに勝利することで多くを学んだ。ケビンに勝つためには周到な準備を必要としたからね。87年、ケビンはシーズン5勝したが、僕はシーズン3勝でAMAチャンピオンを獲得した。でも、僕には受け入れがたい結果だったよ。知らない人から見たら、5勝した方が王者じゃないの? と思うだろう。だから、当時は友達じゃなかった。お互いにいろいろと話せる関係になったのは、GP500時代の最後の数年になってからだった。AMA時代、GP500時代を通じて、ケビンの最大の強みは、コーナーの奥ギリギリまで我慢できるブレーキングだ。ブレーキングで有名だったアレックス・バロスよりすごかった」


 93年にシュワンツは最初で最後の世界王者を獲得しているが、この年、4年連続王者を狙うレイニーとの戦いは激闘だった。全14戦のシーズン。シーズン序盤はシュワンツがチャンピオンシップをリードしていが、第11戦を終えた時点でシュワンツ4勝、レイニー4勝、チャンピオンシップでは安定した成績を残すレイニーがリードしていた。しかし、第12戦のGP500イタリアで、トップを走っていたレイニーが転倒。脊髄に損傷を受けて、そのままライダー引退を余儀なくされた。結果、シュワンツは1987年にレイニーが感じたように、まったく喜べない形で世界タイトルを獲得したのだった。


 引退後のインタビューでシュワンツは、「GP500イタリアの次の開催地、GP500米国のラグナ・セカにいたとき、近くに寄って来る人たちが祝ってくるんだ。『おめでとう、レイニーがいないからチャンピオンは決まったね』と。そこから最終戦まで、つねに自問自答したよ。『これが本当に欲しかったものなのか?』と。それにウェインはたまたま不運だったけど、あれは自分の身に起きていてもおかしくなかっただろう……とね」と、当時を振り返った。


 だが、最大のライバルであるレイニーは、93年の世界王者はシュワンツにふさわしかったと語る。


「僕が何度も世界王者になれたのは、シュワンツがいたからだ。僕のスタイルはとにかく、とことん準備すること。何事にも満足することなく常によりいいものを探った。それが彼に対する僕のアドバンテージだったと思う。しかし、93年のシュワンツは世界王者になるために必要な要素をすべて持っていた」と、シュワンツの力を称えた。


 そして、シュワンツは95年シーズン途中にGP500を引退するのだが、そのアグレッシブなレース運びや、人間味あふれるコメントはファンを引きつけ、結果、ロードレース最高峰初の永久欠番に選ばれた。そんなシュワンツの人間味あふれるエピソードは、GP500以外にも豊富にある。

田口浩次

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