「サッカーどころ」藤枝のプロクラブ J2・J3漫遊記 藤枝MYFC編

宇都宮徹壱

藤枝のスタンドは「セルジオ越後」状態?

引き分けに終わり、肩を落とす藤枝MYFCの選手たち。しかし試合内容以上に気になることが…… 【宇都宮徹壱】

 薄紫色のフジの花が美しく咲き乱れている。ゴールデンウィークの幕開けとなった4月29日、藤枝総合運動公園サッカー場ではJ3リーグ第6節、藤枝MYFC対カターレ富山のゲームが行われていた。藤枝はここまで1勝1分け3敗の14位、対する富山は3勝1分け1敗の4位。藤枝は前半終了間際の45分、久富良輔のスローインから三好洋央が胸で落とし、これを遠藤敬佑が左足からゴールを決めた。前半唯一のシュートで先制した藤枝だったが、後半は相手のロングボールに苦しめられ、最後は後半34分に苔口卓也のゴールで同点に追いつかれる。試合は1−1のドローに終わった。

 初めて取材した、藤枝のホームゲーム。試合内容よりも気になったのが、観客の反応の薄さであった。藤色のレプリカシャツを来た地元ファンはそれなりに来ていたのだが、コアサポーターの数と声量でアウェーの富山に明らかに負けていたのである。「サッカーどころ」として知られる藤枝だけに、かなり意外な印象であった。この点について、藤枝の大石篤人監督に問うてみると、こんな答えが返ってきた。

「静岡に4つのJクラブがある中で、ウチはまだ認められていません。それと藤枝には、サッカーの目が肥えている人が多い。積極的に応援するわけではないけれど、いいプレーには拍手をしてくれます。われわれとしては、来てくれたお客さんに『またスタジアムに来よう』と思わせるようなサッカーをしなければならない。ただ、3、4年前に比べると(入場者数は)増えています。今日も『いつもより多いな』と思ったくらいですから」

 この日の入場者数は1,763人。確かに昨シーズンの平均入場者数(1,531人)を超えてはいた。だが、実際に声を出して応援しているサポーターは、本当に数えるほどだ。コールリーダーの佐橋祐介によれば「いつもはだいたい6人、多いときでも20人くらい」だという。「サッカーどころ」のJクラブとしては、実に寂しい数字だ。ではなぜ、サポーターが増えないのか? 佐藤の答えは、いささか意外なものであった。

「一番はやっぱり土地柄ですよ。ウチは(清水)エスパルスみたいにサンバで盛り上がる感じではないし、ジュビロ(磐田)のように首都圏からもサポーターが来るような感じでもない。藤枝の客層を分かりやすく言えば、『セルジオ越後がいっぱいいる』という感じですかね(笑)。じっと腕組みをしながらサッカーを見ているから、手拍子したりタオマフ(タオルマフラー)を振ったりということもしない。だからといって、僕らも『一緒に応援してください』とは、なかなか言えない雰囲気はありますよね」

代表を輩出し続けた藤枝東と福岡に移転したブルックス

JR藤枝駅の改札を出ると「サッカーのまち」をうたうキャッチコピーを至るところで目にする 【宇都宮徹壱】

「静岡のサッカー」について、あえてJ1ではなくJ3というカテゴリーから探ってみるという今回の取材。前回のアスルクラロ沼津に続き、今回は藤枝MYFCについて取り上げる。静岡県中部に位置する藤枝市は、人口が14万6000人ほど。JR藤枝駅に降り立って、旅人が目にするのは「蹴球都市」「サッカーと、時間(とき)を刻む。」といった巨大なメッセージ広告である。「サッカーによる地方創生」は、全国あちこちで見られる光景である。しかし藤枝の場合、サッカーの伝統ゆえであろうか、その気合いの入りようは尋常ではない。

 藤枝の地にサッカーがもたらされたのは、1924年(大正13年)のこと。県立志太中学校(旧制)の錦織兵三郎なる人物が校長となり、蹴球を校技としたことから始まる。この志太中こそ、サッカーの名門で知られる藤枝東高校の前身である。古くはベルリン五輪(36年)の松永行と笹野積次、その後も山口芳忠、菊川凱夫、中山雅史、山田暢久、そして長谷部誠と、歴代の日本代表を輩出してきた。今でも市内には、現日本代表キャプテンのポスターがあちこちに貼られ、藤枝のスタジアムにも長谷部が着用していたフランクフルトのユニホームが飾られている。

「藤枝のサッカー」について語られるとき、その多くが藤枝東に関するものであることは間違いない。が、この街は社会人サッカーでも重要な役割を果たしている。82年に設立された中央防犯サッカー部は、91年にJSL(日本サッカーリーグ)2部に昇格。旧JFLに参戦した94年には藤枝ブルックスと名を改め、将来のJリーグ入りを目指すようになる。しかし、すでに静岡県に2つのJクラブがあったこと、そして藤枝総合運動公園サッカー場の完成まで2002年まで待たねばならなかったこともあり、地元での昇格を断念。結局、クラブは95年にホームタウンを福岡に移して福岡ブルックスとなり、さらに翌96年にアビスパ福岡となって念願のJリーグ入りを果たした。

 ブルックスが藤枝でのJリーグ入りを断念し、それから藤枝MYFCが新設されたJ3に昇格するまで、実に20年の歳月が流れることとなった。しかしその間、「サッカーどころ藤枝にJクラブを!」という機運が高まっていたという話は聞かない。なぜならその間も、藤枝東は高校サッカー界の雄であり続けたし、同校のOBたちも日本代表やJリーグで活躍し続けていたからだ。藤枝のサッカーファンが求めていたのは、端的にいえば「地元クラブを応援すること」ではなく、「サッカーをすること」や「(藤枝)東の試合を観戦すること」。同じ静岡でも藤枝と他の地域とでは、サッカーに対する楽しみ方は大きく異なる。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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