「サッカーどころ」藤枝のプロクラブ J2・J3漫遊記 藤枝MYFC編
藤枝のスタンドは「セルジオ越後」状態?
引き分けに終わり、肩を落とす藤枝MYFCの選手たち。しかし試合内容以上に気になることが…… 【宇都宮徹壱】
初めて取材した、藤枝のホームゲーム。試合内容よりも気になったのが、観客の反応の薄さであった。藤色のレプリカシャツを来た地元ファンはそれなりに来ていたのだが、コアサポーターの数と声量でアウェーの富山に明らかに負けていたのである。「サッカーどころ」として知られる藤枝だけに、かなり意外な印象であった。この点について、藤枝の大石篤人監督に問うてみると、こんな答えが返ってきた。
「静岡に4つのJクラブがある中で、ウチはまだ認められていません。それと藤枝には、サッカーの目が肥えている人が多い。積極的に応援するわけではないけれど、いいプレーには拍手をしてくれます。われわれとしては、来てくれたお客さんに『またスタジアムに来よう』と思わせるようなサッカーをしなければならない。ただ、3、4年前に比べると(入場者数は)増えています。今日も『いつもより多いな』と思ったくらいですから」
この日の入場者数は1,763人。確かに昨シーズンの平均入場者数(1,531人)を超えてはいた。だが、実際に声を出して応援しているサポーターは、本当に数えるほどだ。コールリーダーの佐橋祐介によれば「いつもはだいたい6人、多いときでも20人くらい」だという。「サッカーどころ」のJクラブとしては、実に寂しい数字だ。ではなぜ、サポーターが増えないのか? 佐藤の答えは、いささか意外なものであった。
「一番はやっぱり土地柄ですよ。ウチは(清水)エスパルスみたいにサンバで盛り上がる感じではないし、ジュビロ(磐田)のように首都圏からもサポーターが来るような感じでもない。藤枝の客層を分かりやすく言えば、『セルジオ越後がいっぱいいる』という感じですかね(笑)。じっと腕組みをしながらサッカーを見ているから、手拍子したりタオマフ(タオルマフラー)を振ったりということもしない。だからといって、僕らも『一緒に応援してください』とは、なかなか言えない雰囲気はありますよね」
代表を輩出し続けた藤枝東と福岡に移転したブルックス
JR藤枝駅の改札を出ると「サッカーのまち」をうたうキャッチコピーを至るところで目にする 【宇都宮徹壱】
藤枝の地にサッカーがもたらされたのは、1924年(大正13年)のこと。県立志太中学校(旧制)の錦織兵三郎なる人物が校長となり、蹴球を校技としたことから始まる。この志太中こそ、サッカーの名門で知られる藤枝東高校の前身である。古くはベルリン五輪(36年)の松永行と笹野積次、その後も山口芳忠、菊川凱夫、中山雅史、山田暢久、そして長谷部誠と、歴代の日本代表を輩出してきた。今でも市内には、現日本代表キャプテンのポスターがあちこちに貼られ、藤枝のスタジアムにも長谷部が着用していたフランクフルトのユニホームが飾られている。
「藤枝のサッカー」について語られるとき、その多くが藤枝東に関するものであることは間違いない。が、この街は社会人サッカーでも重要な役割を果たしている。82年に設立された中央防犯サッカー部は、91年にJSL(日本サッカーリーグ)2部に昇格。旧JFLに参戦した94年には藤枝ブルックスと名を改め、将来のJリーグ入りを目指すようになる。しかし、すでに静岡県に2つのJクラブがあったこと、そして藤枝総合運動公園サッカー場の完成まで2002年まで待たねばならなかったこともあり、地元での昇格を断念。結局、クラブは95年にホームタウンを福岡に移して福岡ブルックスとなり、さらに翌96年にアビスパ福岡となって念願のJリーグ入りを果たした。
ブルックスが藤枝でのJリーグ入りを断念し、それから藤枝MYFCが新設されたJ3に昇格するまで、実に20年の歳月が流れることとなった。しかしその間、「サッカーどころ藤枝にJクラブを!」という機運が高まっていたという話は聞かない。なぜならその間も、藤枝東は高校サッカー界の雄であり続けたし、同校のOBたちも日本代表やJリーグで活躍し続けていたからだ。藤枝のサッカーファンが求めていたのは、端的にいえば「地元クラブを応援すること」ではなく、「サッカーをすること」や「(藤枝)東の試合を観戦すること」。同じ静岡でも藤枝と他の地域とでは、サッカーに対する楽しみ方は大きく異なる。