1994年 現役セレソンの参戦<前編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」

宇都宮徹壱

鹿島の石井監督が語る「レオの思い出」

W杯優勝メンバーでもあったレオナルド。94年は世界トップレベルのフットボーラーがJリーグのピッチに立った 【(C)J.LEAGUE PHOTOS】

 1994年(平成6年)は、米国でワールドカップ(W杯)があった年として、サッカーファンの間では記憶されている。前年のW杯アジア最終予選での「ドーハの悲劇」により、日本代表は目前でW杯初出場の夢を絶たれていたものの、それでもファンの落胆はさほど長く続くことはなかった。93年に開幕したJリーグは空前のブームを呼び、その熱気は翌94年も続いていたからだ。そしてブラジルの4度目の優勝でW杯が閉幕すると、世界トップレベルのフットボーラーたちが、相次いでJリーグのピッチに登場することとなった。

 ドイツ代表の守備の砦(とりで)、ギド・ブッフバルトが浦和レッズへ。ユーゴスラビアの至宝、ドラガン・ストイコビッチが名古屋グランパスエイトへ。そしてW杯優勝メンバーのひとり、レオナルドが鹿島アントラーズへ──。Jリーグ開幕時を彩ったスーパースターたち、たとえば鹿島のジーコや名古屋のガリー・リネカーなどは、確かに知名度と実績は抜群ではあったものの、残念ながらピークはすでに過ぎていた(ゆえに当時のJリーグは、海外から「年金リーグ」と揶揄(やゆ)されていた)。それが94年になると、ついこの間W杯に出場していたような選手たちが、プロ化したばかりの極東のリーグに参戦するようになったのである。

ドイツ代表の守備の砦(とりで)、ギド・ブッフバルトは浦和でプレー 【(C)J.LEAGUE PHOTOS】

「レオ(ナルド)は練習でも、左足しか使わないんですよね。右でかわしているのに、また左に持ち直してプレーを続ける。技術があるから、そういうことができるんだなと感心しました。それとあの頃は、超一流の外国人選手と対戦するのも楽しみでした。名古屋のストイコビッチとか、1対1では絶対にボールが奪えないから、1人が当たりに行ってバランスが崩れたところで、もう1人が行くとかね。そういうレベルの高い相手と、毎試合のように対戦していたので、本当に楽しくて仕方がなかったです(笑)」

 現在は鹿島の監督で、現役時代はレオナルドとチームメートだった石井正忠は、懐かしそうに往時を語る。2016年のクラブW杯決勝では、レアル・マドリーと互角の勝負を繰り広げたことで一躍脚光を浴びることとなった名将も、当時は27歳のプロ3年目。実は石井は、大学時代には高校の体育教師を目指していた。しかし、教員採用試験の願書を出し忘れてしまったことから、その後の人生は思わぬ方向に転がり始める。

 当時、JSL(日本サッカーリーグ)2部だったNTT関東(現大宮アルディージャ)で2年プレー。同じ2部の住友金属から「プロ化するので一緒にやらないか?」と誘いを受けて移籍を決断する。住金は言うまでもなく、鹿島アントラーズの前身。のちにジーコがやって来ることも、国内最多のタイトルを獲得することも、そして自身が監督となってレアルとガチンコ勝負することも、当時は知るよしもなかった。

住友金属から鹿島アントラーズへ

当時JSL2部に所属していた鹿島に、ジーコが「現役選手」としてやってきた 【(C)J.LEAGUE PHOTOS】

 石井は鹿島のMFとして、94年と95年のJリーグでそれぞれ30試合に出場している。プレーヤーとして最も充実していたこの2シーズンは、Jリーグが世界中から一流の選手たちを集める一大市場となっていた時代と重なる。この時代にフォーカスする前に、時計の針を91年まで逆戻りさせることにしたい。当時の住金はJSL2部で、監督は鈴木満。後年、鹿島を常勝軍団に育て上げる伝説的な強化部長も、この時は34歳の青年監督であった。そこにいきなり、あのジーコが「現役選手」としてやって来る。以下、鈴木の回想。

「とんでもないことになったな、というのが正直な思いでしたが、すぐに『教えてもらおう』というスタンスに切り替えました。あれだけの実績と経験のある選手でしたし、自分よりも4つ年上ということもありましたから、そこの割り切りは難しくなかったです。ただし、毎日怒られましたね。練習スケジュールの組み方、休息のとり方、食事の内容。アラ探ししているんじゃないかと思うくらい、何度も何度も怒られて。辞めたいと思うことは、しょっちゅうでしたよ。プレッシャーで、朝の4時くらいに目が覚めるんですね。ああ、またグラウンドでジーコと顔を合わせるのか。嫌だなあと(苦笑)」

 当のジーコにしてみれば、「このチームを強くしたい」とか「プロフェッショナリズムを伝授したい」という使命感は間違いなくあったはずだ。しかし一方で、プロの環境が整っていない、選手やスタッフの意識もプロとは程遠い、しかも単身赴任で話し相手もいないとなれば、いら立ちを募らせるのも無理からぬ話だろう。そんな中、鈴木は「嫌だなあ」と思いながら、どこまでもジーコに食らいついていこうと腹をくくる。

「当時の住金は2部で、このままではJリーグに入るのも難しい状況でした。また僕自身、1部と2部を行き来するような選手だったし、さしたる実績もなければ代表歴もない。そんな自分が、日本サッカーがプロ化する中で生き残っていくためには、誰にも負けない何かを吸収していくしかない。そこに“世界のジーコ”が来たわけです。この人からさまざまなことを吸収すれば、一流になれるかもしれない。そう思ったら、食らいつくしかないですよね」

ジーコからは「とにかく基礎を徹底的に仕込まれました」と石井は当時を振り返る 【宇都宮徹壱】

 一方、当時の選手はジーコからどのような指導を受けていたのだろうか。石井は「とにかく基礎を徹底的に仕込まれました」と回想する。

「ジーコが強調していたのは『シンプルなプレーを正確に、判断を素早く』ということでした。僕は技術が低かったので、たとえばアウトサイドでミスすると『なぜインサイドで丁寧にパスしないんだ!』と、ものすごく怒られましたね。本当に小学生が教わるようなレベルのことを、何度も繰り返していました。(93年春の)イタリア遠征から少しずつ試合に出してもらえるようになって、キャプテンにも任命されましたけれど、あの時は自分のことで必死でしたね。とにかくレギュラーポジションを確保して、プロとしてJリーグの開幕を迎えたい。その一心でした」

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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