1994年 現役セレソンの参戦<前編> シリーズ 証言でつづる「Jリーグ25周年」
ジーコの現役引退と鹿島の「次の一手」
鹿島は当時の川淵チェアマンにJリーグ参入は「99.9999%ない」と言われながらも、残り0.0001%の可能性に懸け、見事に参入を果たした 【(C)J.LEAGUE PHOTOS】
晴れて「オリジナル10」の一員となった鹿島であったが、それでも川淵は「お荷物にはなってくれるな。少なくともビリになるな」とヒヤヒヤしていたという。しかしフタを開けてみると、1stステージは鹿島が圧倒的な強さを見せつけて、見事に優勝。ジーコ率いるアントラーズと、人口5万人にも満たない鹿島町(当時)は、空前のJリーグブームも相まって一気に全国区の存在となる。しかし、当時アシスタントコーチだった鈴木にとり、Jリーグ元年の記憶はそれほど楽しいものではなかったという。
「当時の立場として、監督の征勝さん(宮本征勝=故人)とジーコとの板挟みでしたから、いろんな意味で神経がズタズタになりそうでした(苦笑)。それに加えて、お荷物にならずにJリーグで生き残っていかなければならなかったので、とにかく必死でした。ウチはヴェルディ(川崎)や(横浜)マリノス(いずれも当時)のように、実績もなければ伝統もない。やれることは全部、完璧にやらないと置いていかれる。ですからあの年(の1stステージで)優勝しても、選手は浮かれることも、調子に乗ることもなかったです。それは必死さと危機感もさることながら、『常に謙虚であれ』というジーコの教えも大きかったと思いますね」
鹿島の土台づくりに尽力したジーコは94年、惜しまれながらピッチを去った 【(C)J.LEAGUE PHOTOS】
「というのも、僕にとってジーコは大恩人でしたから。もともと守備的なポジションだった僕に、(ダイヤモンド型の)中盤の左での役割を与えてくれたのは彼です。『お前ならできる』と、僕の能力を引き出してくれました。(年齢的なこともあって)プロとしてのキャリアは長くはなかったですが、もしジーコと出会っていなかったら、プロとしてあの舞台に立つのも厳しかったのではないかと、今でも思っていますね」
かくして、鹿島アントラーズの土台づくりに尽力したジーコは、惜しまれながらピッチを去っていった。しかしフロントは余韻に浸ることなく、すぐさま「次の一手」を打っている。この年、クラブの新社長に就任した鈴木昌(のちの2代目Jリーグチェアマン)は、「鹿島のブランドを確立させる」ことを次の目標に掲げ、それにふさわしい新外国人選手の獲得を命じた。ターゲットに選ばれたのはW杯優勝メンバー、レオナルドである。
<後編に続く。文中敬称略>