多村仁志が引退時に示した諦めない精神 誰かのため、チームのために動いた22年

週刊ベースボールONLINE

2006年のWBCではチームトップの3本塁打9打点と大活躍した多村(背番号6)。その影には先輩の助言があったという 【写真:BBM】

 その野球人生はケガとの闘いだったと言ってもいい。「ボロボロになるまで現役を続けられた」。そう胸を張って言える、激動の現役生活を振り返る。

地元球団に導いた鶴の一声

 さまざまな縁に恵まれた22年間だった。球団社長の鶴の一声で地元球団への入団が決まり、先輩からの助言を活躍につなげた。その一つひとつが大切な財産となっている。

──入団は1995年。多村さんにとってプロ野球選手とはどういうものでしたか。


 「なりたい」という夢でしたね。みんなそうだとは思うんですけど、小学生のときから卒業文集には「将来の夢はプロ野球選手」と書いていました。僕は小学校、中学校とそれほど目立った選手ではなく、横浜高に入ったときには、同期に紀田(彰一、元横浜ほか)、斉藤(宜之、元巨人ほか)や、シニアリーグで超有名な選手がいっぱいいて、あまり現実的ではありませんでしたけどね。

──それが現実的になってきたのは。

 ドラフトにかかるまではプロになれるとは思っていませんでしたね。名前を呼ばれるまでは大学、社会人も考えていました。新聞に掲載されているプロ野球の入団テストの告知を見て、父と「応募しようか」と相談していたくらいですから(笑)。だからどこの球団でも、何位でも、指名されたら絶対に行こうと思っていました。

──それが地元球団の横浜だった。

 入団した後にスカウトの方から聞いたことなんですけど、僕の名前は一応、指名リストには入っていたらしいです。そうしたらドラフト当日に、当時球団社長の大堀(隆)さんが急に「多村を取れ」と言ったみたいで、みんなあたふたしたそうなんです。ほかの球団の方には「本当はお前を取ろうとしたのに横取りされた」と言われたり(笑)。そういう話を聞いたので、大堀さんには本当に感謝しています。

──横浜ベイスターズの印象は。

 地元でしたから、僕の家族や親戚もみんな昔から大洋時代からのファンなんですよね。入ったときには「よくやった」と喜んでくれました。僕自身、小、中、高と横浜スタジアムでプレーしましたし、観戦もしていたからうれしかったですね。

──入団してプロのレベルをどう感じましたか。

 打撃はそれほど良くなかったですが、肩だけは誰にも負けないという自信はありました。それでも先輩たちを見ると「体が大きいなあ。力がすごいなあ」と感じましたね。入った当初は2軍の練習にも参加させてもらえなかったんですよ。キャンプ地の静岡・草薙球場の上に公園があって、そこで僕と相川(亮二、現巨人)、加藤(謙如、元横浜)の3人でいつも基礎練習。草薙球場を使えるのは先輩たちが昼休みの間に打撃練習をさせてもらうだけでした。想像していたプロの世界とは違いましたね。

──1軍デビューは3年目の開幕戦(97年4月4日、対中日、ナゴヤドーム)でした。

 1軍に残れるきっかけとなったのが、オープン戦期間中に行われたシート打撃でした。佐々木(主浩、元横浜ほか)さんからセンター前にヒットを打ったんですよね。そうして開幕メンバーに入り、緊張しながら応援をしていたんですが、急に「代打でいくから振っておけ」と。「ええっ? 開幕戦だぞ」と驚きました(笑)。でも、「始まるんだな」という気持ちでした。山本昌(元中日)さんのスクリューを三塁ゴロだったのですが、Wikipediaでは外野フライとなっていて「そうだったかな」と。結果をちゃんと覚えていないほど舞い上がってしまっていたのでしょうね。

──その直後の5月に右肩を負傷し、長期欠場を強いられます。

 ある試合でライトを守っていて、バックホームをしようと思ったらカットマンがおらず、とっさにセカンドに投げた瞬間に「ブチブチブチ!」と音が聞こえました。まったく肩が上がらなくなってしまいましたが、ファームには落ちたくなかったですから、肩が内出血で真っ青なまま1カ月は頑張りましたね。それでもどうしようもなくなって、調べてみたら腱板断裂というひどいケガだったので、致し方なかったのかな、という……。

──1軍復帰は2000年。その間、チームは98年にリーグ優勝、日本一を果たしました。

 97年のリハビリ中、「来季はレギュラーで使う。だから早く治せ」と当時の権藤(博)監督から言ってもらっていました。でも、いくらリハビリをしても良くならず、「手術すれば3カ月で治る」ということだったので踏み切ったのですが、開けてみたらひどい状態で、「野球は無理かもしれない」と言われました。肩にボルトを4本入れて、「もう終わったな」と思いましたね。リーグ優勝のときには2回目の手術で病院にいました。どうなっていたかは分からないですけど、「あそこに自分がいたんだろうな」と思うと、悔しい気持ちとうらやましい気持ちがありました。

変化球待ちの真っすぐ打ちでアーチ量産

横浜入団当初は肩と足に自信を持っていたが、打撃も徐々に成長。屈指の万能選手になった 【写真:BBM】

──03年には規定打席未満ながら18本塁打を放ち頭角を現しました。

 話はさかのぼるのですが、プロに入った当時、球団には「日本人の右打者にホームランバッターがいない。だからお前がなれ」と言われたんですよ。「いろいろな先輩がいるから、その選手を目標にして一人ずつ抜いていけ」と。コーチだった竹之内(雅史)さんに遠くに飛ばすコツを教えてもらい、3年目から突然打球が飛ぶようになったんですよね。沖縄で行われていた「ハイサイ沖縄リーグ」でホームランと打点の最多記録を作り、それがきっかけで1軍デビューできたんです。肩、足に加えて打撃という武器が増えたと感じましたね。そして右肩をケガしている間にも左腕だけでもずっと練習はしていましたから、それでさらに飛距離が伸びました。ケガをしたおかげというのはおかしいですけど、それでレベルが上がりました。

──01年の秋季キャンプでは臨時コーチを務めた落合博満(現中日GM)さんに指導を受けました。

 そのときはチームメートだったロバート・ローズ(元横浜ほか)にかわいがってもらっていて、今年まで使っていたバットもローズと同じ形なんですけど、バットをもらって「握り方はこうだぞ」と教えてくれたんです。それでローズと一緒の打撃フォームで打っていたのですが、落合さんから「その打ち方で何時間も打てるのか」と言われて、実際に付きっ切りでスイングしていたら疲れてやっぱり振れなくなってしまうんですよね。するとだんだんと自然な立ち姿になっていって、最終的には落合さんと同じような神主打法のようなフォームになり、「それだ」と教えてもらいました。シンプルで効率のいい動きを学ばせてもらいました。

──04年には40本塁打。やはり本塁打を意識していたのでしょうか。

 ホームランを狙わなくても、芯に当たったら飛ぶという感覚でした。若いときから教えてもらっていたのが、「見逃し三振だけはするな。三振するなら振って帰ってこい」ということ。それがずっと頭にあって、フルカウントになったら少々のボールでも振って三振ということもありました。でも、そういった思い切ったスイングができていたからこそホームランが打てたのだと思います。ほかの人よりスイングスピードが速かったので、投手が1球でも真っすぐを投げて、「この球速だったら変化球のタイミングでも打てるな」と思ったら、基本的には変化球のタイミングで待っていたんですよね。真っすぐが来たときにはパッとスイングするので、右方向へ飛ぶことが多かったですね。当時のセ・リーグの投手はボール球になる変化球を振らせてかわそうとするタイプが多く、変化球待ちの真っすぐ打ちという気持ちでした。

──06年には第1回WBCで世界一に輝きました。

 それまで日米野球などには出ていましたが、国際大会での日本代表は初めて。ましてや、あのメンバーの中でレギュラーで出られるとは思っていなかったですから、びっくりしましたね。もともと、「自分のために」という野球は1回もありませんでした。ピッチャーのために、チームのために、という気持ちでプレーしていたので、その延長戦があの大会でした。

──大会中に特に印象に残っていることは。

 本番前の強化試合などから使ってもらっていたんですけど、結果がまったく出なかったんですよ。初戦(3月3日、東京ドーム)の中国戦も打てていなかったのですが、試合中に谷繁(元信、元中日ほか)さんにベンチ裏に呼ばれて、「足を上げるタイミングが遅いから、次の打席は早めに上げてみろ」と言われて、次の打席で試した途端にホームラン。あの谷繁さんのアドバイスがなかったら、その後もヒットは出なかったかもしれませんね。中日ではキャッチャーボックスから僕の打撃を見ていたでしょうし、横浜では僕と谷繁さん、鈴木(尚典、元横浜)さん、ローズの4人で常にトレーニングをしていましたから。ほかにも宮本(慎也、元東京ヤクルト)さん、和田(一浩、元中日ほか)さんにもアドバイスをいただきましたし、先輩方の支えがWBCでの活躍につながりました。

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