多村仁志が引退時に示した諦めない精神 誰かのため、チームのために動いた22年
王監督と新天地のために気持ち切り替え
──同年のオフ、福岡ソフトバンクへトレードとなります。多村さん自身は意外だったのでは。
ずっと横浜でプレーしていくと思っていました。球団の方にホテルに呼ばれて、最初は「何で呼ばれたんだろうな」という感じだったのですが、席に着くと「トレードの話がある」と。正直に言えば、ショックではありましたね。ゆかりのない福岡で、不安しかなかったですね。
──実際にソフトバンクに入団して、その思いは変わりましたか。
当時の王(貞治、現球団会長)監督から「王だけど」と連絡をいただいたんですよね。「直接来るんだ」とそれもびっくりしたんですけど(笑)、そのときに「これは僕との、ホークスとの縁だから、その縁を大事にしていこう」と言ってもらい、気持ちはガラッと変わりましたね。王さんのために、ホークスのために頑張ろうと気持ちを切り替えることができました。チームにはWBCでチームメートだったムネ(川崎宗則、現カブスFA)や松中(信彦、元ソフトバンク)さんなどがサポートしてやりやすい環境を作ってくれたので、とてもありがたかったですね。
──10年にはキャリアハイの成績を残し、自身初のリーグ優勝を果たしました。
チーム三冠ということで貢献できました。小久保(裕紀、現侍ジャパン監督)さんや松中さんがケガで離脱する中で4番も打たせてもらいましたし、先輩方がいなくなったときには引っ張っていかないと、という自覚がありました。一生懸命駆け抜けたというか、必死にプレーしましたね。
──その翌年には日本一。
ペナントレースでは結果が出ず、最後のほうは試合には出られなかったのですが、それでも当時の秋山(幸二)監督から「クライマックス、日本シリーズのために調整をしてくれ」と言われていたので、そこに向けて体を万全につくっていました。シーズン中も試合は代打で出ることも多かったですが、練習中はポール間走などをして下半身づくりをしていたので、ポストシーズンでは成績を残せたのだと思います。
ベテランとして見せたかった背中
横浜ベイスターズと、横浜DeNAベイスターズではまったく別のチームでしたね。知っている選手がほとんどおらず、まったく違うチームに来たような感覚でした。でも、球場で試合をすると、ファンの方たちは変わっていない。ホークスでプレーしていたときにも、横浜スタジアムでは球場全体で応援してもらっていたので、それがうれしかったんですよ。
──多村さん自身はベテランとして、どうチームに貢献しようと思っていたのでしょうか。
ホークスに行って思ったのが、小久保さん、松中さんがとても練習されていて、それに触発されて若い選手も一生懸命にやっているということ。僕もトレーニングや練習方法を見直しましたから。横浜時代にはセンスに頼っていた部分もありましたので、福岡に行って気付かされましたね。それをベイスターズに行ったらみんなに教えてあげようと思って帰ってきて、率先して練習するようにしていましたね。
──その後、15年オフに戦力外となり、中日では育成選手として1年間プレーして現役を引退しました。
引退は自分から球団に伝えさせてもらいました。支配下になれなかった時点で身を引こうとは考えていて、家族と話をしていました。
──育成から支配下への登録期限は7月31日。8月以降はどのような気持ちでプレーを続けていたのでしょうか。
5月末に右腕が動かなくなってしまい、治療を受けていたんですよね。野球ができない状態だったのですが、それでも最後までユニホームを着て終わりたいと思っていたので、リハビリを一生懸命に頑張っていましたね。まったくボールを投げられないような状態だったのですが、小笠原(道大)2軍監督には「投げられなくても、代打で若い選手に背中を見せてくれ」と言ってもらい、試合に帯同させてもらいました。どうにかしてその気持ちに応えようというだけでした。
──若手に見せたかった姿とは。
中日には育成で入団させてもらった時点で、支配下にならないといけないという使命感はありましたけど、「今まで培ってきたものを選手に見せてくれ」と言われていました。自分が教えてもらったもの、やってきたものをちょっとでも気付かせてあげられたらと思っていました。選手納会では「多村さんの姿を見て僕らも頑張ることができました」と言ってもらえたので、少しでもいい影響を与えられたのなら良かったですね。今度は自分たちが上の代になったときに、後輩たちに姿勢で示すことができればもっと強くなっていくと思います。今年は本当に充実した1年でした。
グラウンドに戻ってこられたことが誇り
──現役生活を振り返って、どのような思いがありますか。
まずは、まさか22年間もプレーするとは思っていなかったですね。もっと早く引退していてもおかしくなかったという気持ちはあります。レギュラーになるまでは10年かかりましたから、遅咲きなのかもしれません。ケガをたくさんしてきて、そのたびに復活をして……成績もそうですけど、そっちのほうが僕は誇れるのかな、と思いますね。これだけケガをしてきても、必ずグラウンドに戻ってこられたことが。
──もしケガがなければ、どれだけの成績を残していたのかという想像をしてしまいます。
それは皆さんに言ってもらいますね。でも、これが僕の野球人生だと思っていますし、みんなが経験できなかったことだと考えています。ケガをすることで自分の体を見つめ直したり、勉強したり。今は引き出しができました。今後、教える立場になるかもしれないですけど、そういうときにはいろいろなことを伝えられるのかな、と。
──やはり、将来的には指導者になりたい。
僕が教えてもらったことを、僕だけでとどめておくのはもったいないと思いますし、伝えることでちょっとでもレベルアップしてくれるのならうれしいですから、いずれはそういう立場になりたいですね。11月には侍ジャパン強化試合の解説をして、外から野球を見るのも楽しいと感じました。今はいろいろなことに挑戦してみたいと思っています。
──では、最後にファンの方にメッセージをお願いします。
感謝しかないですね。試合に出ているときも、ケガをしてリハビリをしているときも、常に温かい声援を送っていただきました。ファンの方がいなかったらここまで頑張ってこられなかった。これからも球場などで会ったら気兼ねなく声をかけていただきたいですし、またユニホームを着て球場に戻ってこられるようにしたいと思うので、そのときに「おかえり」と言ってもらったらうれしいですね。それと、家族にも感謝しています。引退を伝えたときには「よく頑張ったよ」と言ってくれました。妻には本当に苦労をかけましたね。少ない給料のときに結婚をして、僕がケガをしていたときには周囲からいろいろなことを言われたみたいですけど、よく我慢をしてもらったと思います。野球選手の奥さんはみんなそうだと思うのですが、家を守ってくれたのは僕ではなく妻ですからね。家族には僕のほうから「ありがとう」と言いたいです。
(取材・構成=吉見淳司 写真=大泉謙也、BBM)