パラ陸上・中西を勇気付けた“米国” 東京への飛躍につながる最終試技
高い目標設定も届かず引退を決意したロンドン
最終試技となる6本目の前に、米国チームのコーチからもらったアドバイスが中西に勇気を与えた。さらになる飛躍へ、視線は東京へ向けられている 【写真:アフロスポーツ】
「ああ、私は本当に陸上が大好きなんだ」
日本人である自分を受け入れ、可能性を伸ばしてくれた米国という環境。やがて、中西は、明確に「6メートルを跳ぶ」という目標を抱くようになる。それはパラリンピックに限らない。健常者の大会にも積極的に出場し、なおかつそこで勝つことまで視野に入れる。目指す頂は、どれだけ高くてもいい。高いほど、自分を奮い立たせてくれるのだ。
12年のロンドンパラリンピック前、当時の世界記録は5メートル09。そして、中西の自己ベストは4メートル96。実際には、練習や米国の記録会などで、未公認ながら5メートル10を跳んでいたという。世界記録を樹立して金メダル。ロンドンパラリンピックで実現させるはずだった。しかし、実際には、ロンドン大会で出した記録は5メートルに届かない4メートル79で8位。惨敗だった。
「米国で充実したトレーニングを送っていたけれど、そのことで逆にバッシングを受けた。そしてロンドンの結果。アルに恩返しも叶わなかった。もう、完全に精神がボロボロでした」
ロンドン大会の走り幅跳び直後のインタビューで、中西は青い顔のまま「……引退します」とつぶやいた。
米国の仲間がくれた勇気
「マヤはあんなに陸上競技を愛しているのに、なぜ辞めてしまおうなんて考えるの?」
「マヤがいない国際大会はつまらないよ」
そんなチームメートの言葉が、沁(し)みた。もっと自分に誇りを持っていい。国際大会で戦えるだけの力を培っていかなくては、彼女たちと会うこともできない。
「そうして、もう一度世界に飛び出す勇気をもらったのです」
最終試技で見えた次の4年の道筋
中西は3カ月前に助走を変えた。スタートを義足の右足から左足へ。ストライドを19ステップから18へ。それが完全に自動化されていなかった。
「3本目、踏み切り板の手前でストライドが合わず、バタバタと無理に刻んでジャンプしてしまいました」
ロンドン大会の頃の中西だったら、できない、できないと、メンタルが負のループに捕まってしまい、きっとパニックになっていたはずだ。
「4本目、5本目も迷いながら跳んでいたのですが、6本目の前に、米国チームのコーチからアドバイスをもらって。自分を信じてただ思い切り跳べばいい、と」
6本目。目印のマークの位置をわずかに変えた。閉じていた目を静かに開くと、ひたと前を向く。一つ呼吸をしてスタート。そして、中西にとっては6本の試技のベストとなる5メートル42をマークした。
「最後に、自分にはちゃんと試合中に修正する力がある、ということが分かった。やればできる。自分の力を信じていい。次の4年を考えた時に、きっといい4年を過ごせると実感できた。その道筋がはっきりと見えた1本になりました」
メダルには届かなかった。しかし、リオデジャネイロでの走り幅跳びは、東京へと続く大きな跳躍になったのだった。