揶揄に負けなかったしずちゃんの功績 五輪の夢叶わずも貫いたボクサーズロード

善理俊哉

ロンドン五輪出場ならずも明確な成長を見せた

五輪予選の初戦勝利後、相手のニザモワに笑みを見せた 【善理俊哉】

 技術力はいつも相手が上。それに未熟な経験で張り合うためには、玉砕覚悟で前に出て、しつこく連打する戦法に専念せざるを得なかった。だが打たれに打たれまくられた成果で、2012年2月の「全日本女子選手権兼ロンドン五輪予選日本代表派遣選手選考会」では 、他のスポーツで実績のある2選手が台頭したにも関わらず優勝。

 その年の5月には中国・秦皇島で行われた五輪予選に参加。大方の予想を覆して初戦を突破した。キックボクシングの国際大会で優勝の実績があるというシャフノザ・ニザモワ(ウズベキスタン)からダウンを奪い返してレフェリーストップに追い込んだ殊勲の勝利は、戦前予想が圧倒的に不利だったこともあってドラマチックだった。

 次の試合で山崎はアンドレア・シュトローマイヤー(ドイツ)に敗れて、五輪出場はならず。だが翌日から他国の選手とのスパーリングを再開している。

 当時の年齢制限は34歳。リオ五輪前にこの定年に引っかかると知っていたが、山崎は「前に出てばかりではサウスポーに弱いんやと痛感しました」と新しい課題にやりがいを示した。

 この年の12月に行われた全日本女子選手権にも変わらず出場。以後は“しずちゃんあって”の大会がいくつか組まれ、他国の代表選手に勝つなど、明確な成長を見せた。

「ボクシングをやりたい」と言われて救われた

2013年4月、後楽園ホールでの『女子チャレンジマッチ』で涙ながらに山崎に礼を言う梅津さん。抗癌剤治療中だった 【善理俊哉】

 そんななかで梅津さんは2013年7月23日に44歳で他界。選手の定年は40歳まで引き上げられたため、山崎はその後もボクシングを続けたが、仕事との両立を含めた様々な限界を感じ、リオ五輪前に引退を決めた。山崎はあくまで自分のタイミングでボクシングを止めることで、五輪や梅津さんのスパルタ指導が彼女を縛り付けていなかったことを証明したともとらえることができる。

 ちなみに梅津さんは、余命がわずかだと自覚し始めた頃、前述の全国行脚について、こんな本音を漏らしたことがある。
「スパルタ指導でしずを精神的に追い詰めていることは確かでしたから、正直、不安はもちろんありました。意志の疎通が取れていると思っても、他人に預けると彼女が無意識に、自分にやさしいほうになびきそうになるのが分かったんです。言葉では私を信用しようとしていましたが、悪いことしたかなって。だからロンドン五輪後もまたボクシングをやりたいって言い出した時に、俺、救われたわと思いました」

2014年度の全日本選手権では技術力も見せて貫禄優勝 【善理俊哉】

 現在はタレント活動に専念している山崎はこんなことをいう。
「ボクシング経験が技術的に役立つということはそれほどないですけど、お笑いでも大一番はたくさんあります。そういう時にふとボクシング時代の闘争心が宿っているのが分かるんです。自分はもっともっと頑張れるんじゃないのかと意欲が湧いてくる。私にとってボクシングは表舞台に立つために不可欠なトレーニングやったと思います」

 女子ボクシング最初の太陽は、輝きを増して再び昇り始めている。

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著者プロフィール

1981年埼玉県生まれ。中央大学在学中からライター活動始め、 ボクシングを中心に格闘技全般、五輪スポーツのほかに、海外渡航を生かした外国文化などを主に執筆。井上尚弥と父・真吾氏の自伝『真っすぐに生きる。』(扶桑社)を企画・構成。過去の連載には『GONG格闘技』(イースト・プレス社)での『村田諒太、黄金の問題児』などがある

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