忘れた頃に花開いたフランスの英雄パイエ ビエルサに触発され、心技体とも成長

木村かや子

将来を嘱望される子供だったが……

ユーロのグループステージでフランスの救世主となったのはディミトリー・パイエ(中央)だった 【写真:ロイター/アフロ】

 開催中のユーロ(欧州選手権)2016のグループステージで、フランスの救世主となった選手、それが、昨夏にマルセイユからウェストハムに移ったディミトリー・パイエだった。

 フランス海外県、レユニオン島の出身であるパイエは、サンテティエンヌ時代には松井大輔のチームメートだった選手である。松井が在籍した2008−09年当時、まだ21歳だった彼は、期待の若手として注目され始めていたところだった。実際、わずか12歳でル・アーブルによってフランス本土に呼び寄せられたほど、将来を嘱望される子供だったのである。

 しかし時とともに若さときらめきは消え、パイエは“そこそこ優秀な選手”として終わるかに見えていた。今年の初頭には、パイエがフランス代表に招集されるかさえ定かではなかった。ユーロ本大会初戦のルーマニア戦で決勝ゴールを決めた後、喝采を浴びながら交代で退出したとき、パイエが感極まって涙を流したことには、それなりの理由がある。「あのゴールは、多くの努力と犠牲の賜物(たまもの)だった」と彼は言った。

「数カ月前、僕はここにいることを想像していなかった、ましてやピッチの上にいるところなんて」

 翌日のテレビでは、十代前半のごく小さな子供だったパイエが取材を受け、「僕の目標は、フランス代表としてプレーすることです」と言っている映像が、何度も映し出されていた。

ユーロ開幕戦でチームを救ったパイエ

開会式の直後に行なわれた開幕戦、フランス代表の選手たちは思いがけない緊張の発作に襲われていたという 【写真:aicfoto/アフロ】

 現地時間6月10日に行われたフランス対ルーマニアの開幕戦でパイエが決めた、ペナルティーエリア外からの強烈なミドルシュートが、フランス代表に2−1の勝利を、そしてパイエに“英雄”の呼び名を与えた。

 開会式の直後に行なわれたその試合で、フランス代表選手たちは、思いがけない緊張の発作に襲われていた。「自分を含め、出だしは緊張ですごく硬くなってしまった」とオリビエ・ジルーが試合後に認めたとおり、ピッチ上でラ・マルセイエーズ(フランス国歌)を聞いたときに、急に母国開催のプレッシャーを実感したようなのだ。

 その緊張のせいか、それとも長いシーズンに蓄積した疲労のせいなのかは定かではない。だが、技術的ミスも多かったフランス代表は、持ち味だったスピーディーな攻撃ができず、ルーマニアのプレッシングに負けて、おびただしい数のボールを失った。そんな中、動きの良さという面でいいレベルを保っていた数少ないフランス人選手が、エンゴロ・カンテとパイエだったのだ。

 フランスはパイエのアシストからジルーが決めたヘディングゴールで先制したが、パトリス・エブラが犯したファウルでPKを献上して追いつかれ、追加点をとれずに苦しんでいた。ディディエ・デシャン監督は、この日、ややキレを欠いていたポール・ポグバとアントワーヌ・グリーズマンに代え、アントニー・マルシャルとキングスレイ・コマンを投入。パイエはトップ下に移動したが、この変更も、しばらくの間は大きな功を奏さなかった。

 しかし、引き分けに終わるのかと皆が諦めかけたそのときに、それは起きた。カンテの素早く正確なパスを受けたパイエが、ペナルティーエリアのすぐ外から、利き足ではない左足を思い切って振り抜き、ゴールの左上の隅を力強く射抜いたのである。

 こうしてチームに勝利をもたらしたパイエは、翌日から連日、新聞に持ち上げられることになる。翌日のプレー評価で10点中8の高評価を受け、翌々日には、「パイエ特集」が仏紙『レキップ』のトップを飾った。そこに見られた、「一体どうやってこのパイエになったんだ?」というタイトルは、彼の置かれていた状況をうまく表している。

 パイエは長いこと将来が期待される若手と信じられていたが、ナント、サンテティエンヌ、リールを経てマルセイユに至ったときには、リーグアンレベルでは有能と言えるが、世界的には中程度の選手に落ち着いた、という印象を与えていた。つまり、世界レベルで強いインパクトを与える選手には育たなかった、というように。

何がパイエを変えたのか?

 パイエが初めてA代表に呼ばれたのは10年だったが、親善試合や欧州予選で断続的に何度か呼ばれながら、一度も国際大会の本番で招集されたことのない選手だった。理由は単純。呼ばれたときに、これといった活躍を見せることができていなかったからだ。フランスがアルバニアに0−1で敗れた15年6月13日から今年の3月まで、パイエは代表から遠ざかることになるのだが、それは、守備への加勢が足りないと判断されたせいでもあったという。

 今年3月の親善試合にパイエが呼ばれたのは、ここ1年、パイエがウェストハムで非常にいいプレーをしたからでもあるが、同じポジションでスタメンだったマチュー・バルブエナが調子を落としていたことも関係している。そして、ユーロ本大会に向けた23名のリストが発表され、キャンプが始まってからも、パイエが先発メンバーに入れるかは微妙なところと見られていた。

 つまり期待されていたポグバやグリーズマンではなく、パイエが英雄となったことはある意味で予想外だったわけだが、彼の好調の伏線はすでに大会直前の準備試合、対カメルーン戦で表れている。主力DFの故障のため、予想通り守備に弱さを見せたフランスは88分に2−2と追いつかれるのだが、パイエはその2分後、FKから目の覚めるような決勝ゴールを決めてみせた。

 この活躍もあって、ユーロ本番の先発メンバーの座を手にした彼は、グループステージ第2戦のアルバニア戦のアディショナルタイムにも、自分が以前とは違う選手になったことを示してみせる。皆が1−0の勝利に満足しかかっていたときに、アンドレ・ジニャックが敵陣に突っ込み倒されてこぼれたボールをさらったパイエは、決めると確信を持ったドリブルで相手を抜き去り、力強いシュートをたたきこんだ。

 思い返せば、パイエは昔から過剰におごることも、また自信をなくすこともなく、精神的にもしっかりした若者だったが、可能性の限界まで輝けなかった選手という印象を残したまま、20代後半を迎えた。そのため、ユーロのグループステージ2戦の後、皆が「なぜ今、29歳にもなって?」と問いを投げ掛けたのだ。

 最も容易に頭に浮かぶロジカルな説明は、彼がフランスを離れ、イングランドに行ったということだ。

「プレミアリーグが彼にすごく合っていたんだよ」とジルーは言う。またアディル・ラミも「リーグアンがダメだと言っているんじゃないよ。でもイングランドに行って以来、彼が花開いたっていうのは事実だろ?」と同調した。

 しかしパイエ本人は、すべての始まりは、リール後に移ったマルセイユでの2年目の14年に、監督としてやってきたマルセロ・ビエルサとの出会いだったと告白する。

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著者プロフィール

東京生まれ、湘南育ち、南仏在住。1986年、フェリス女学院大学国文科卒業後、雑誌社でスポーツ専門の取材記者として働き始め、95年にオーストラリア・シドニー支局に赴任。この年から、毎夏はるばるイタリアやイングランドに出向き、オーストラリア仕込みのイタリア語とオージー英語を使って、サッカー選手のインタビューを始める。遠方から欧州サッカーを担当し続けた後、2003年に同社ヨーロッパ通信員となり、文学以外でフランスに興味がなかったもののフランスへ。マルセイユの試合にはもれなく足を運び取材している。

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