元広島・河内貴哉、16年のプロ生活を語る ドラフト1位から育成、そして1軍へ

週刊ベースボールONLINE

イメージと現実の乖離

3球団から1位指名を受けた99年のドラフト会議。達川監督(当時)がくじを引き当てた 【写真=BBM】

 1999年秋に行われたドラフト会議、河内貴哉は3球団から1位指名を受けた。クジを引き当てたのは広島の達川晃豊監督(光男、当時)。ゲン担ぎにポケットに忍ばせたタバコのラッキーストライクを顔の前に掲げて喜びを表現した達川監督の姿は、ドラフト史に残る名シーンとなった。150キロ超えを誇る大型左腕は、それほど高い評価と注目を得てプロの世界に飛び込んだ。

――国学院久我山高時代、プロ野球はどのような位置付けだったのでしょうか?

 実際は、高校3年の夏くらいまでは大学に行くかプロに行くかで迷っていました。中学生のころは甲子園より東京六大学で野球をやりたいというあこがれがあって、高校を選ぶときも野球ばかりではなく、進学を考えた選択をしたつもりです。だからプロよりも六大学のほうがより身近な夢でした。そんなところに、とんでもなく上の土俵からオファーが来たっていう感じです。

――高い評価に戸惑いがあった?

 僕がドラフトにかかる前年は、松坂さん(大輔、現ソフトバンク)が指名された年です。松坂さんがいた横浜高とは練習試合で戦ったこともあったんですが、あの球を目の当たりにして、プロ入り後の活躍を見ながら、こういう人がドラフト1位で競合されるんだなって思っていました。だから、僕が3球団から1位指名されるような状況になるとは予想外でしたね。

――近鉄、中日、広島から1位指名を受けました。

 ドラフト前、マスコミから「意中の球団はどこ?」としつこく聞かれて、東京から近い中日の名前を挙げたのですが、軽い気持ちで口にしたことが一斉に報じられて、メディアの力のすごさを思い知らされました。実際はどの球団でも良かったというのが本心です。クジを引いた達川さんがラッキーストライクを出して喜んでくれたことが印象に残っています。

――背番号「24」を着けることになりました。

 カープの「24」と言えば大野(豊)さんですからね。40歳を過ぎても活躍された偉大なピッチャーです。入団したてのころもいつも気にかけてくださいましたし、10年から3年間はコーチを務められていたので、よりお世話になりました。手術後に育成選手になったときに「124」を着けて、12年に支配下に戻ったときも球団は「24」を用意してくれたんですが、「僕がまた着けてもいいのかな」という気持ちだったことを覚えています。

――この16年間と入団時に想像していたものとを比べて、どのように評価しますか?

 まあ思うようにはいかなかったですね(苦笑)。左肩を手術する以前にしても、フォームがまったく固まりませんでした。いろいろな方にアドバイスをいただける環境で、それを受け入れたらどんどん良くなると思って、全部を自分のものにしようとしていたんですが、それがうまくいきませんでした。アドバイスを受け入れる以前に、自分を持てていなかった。自分の形がないままだったので、そのうち投げ方が分からなくなってしまいました。そこからフォームに苦しんで、悪いフォームのまま投げていたことが肩の故障につながったんだと思います。もう少し、自分に自信を持ってやれていれば違ったんじゃないですかね。振り返ると入ってきたときに思い描いていたものとは、かけ離れたプロ野球人生になりました。

――キャリアハイの成績を残したのが5年目の04年。23試合に先発して8勝9敗でした。

 その年も調子の波が大きかったですよね。調子が良いときは形になりましたけど、悪いときはとことん打たれてしまうんです。だから負け越していますし、防御率も5点台(5.72)です。その課題として、安定した形を強く追い求めるようになりました。もともとコントロールの良いピッチャーではないのに、細かいコントロールが必要だと思うようになって、フォームが縮こまって球がどんどんいかなくなって、また悩む(苦笑)。とにかく常に悩んでいたんですよ。1年目くらいですかね、何にも考えずにガムシャラに投げられたのは。

――手術前の06年にもスリークオーター気味のフォームを試みています。

 投げ方が本当に分からなくなっていた時期で、少し腕を下げたら感覚が良くなったんです。対左にも有効でしたし、コーチとも話し合ってやったことを覚えています。苦し紛れで始めたことではありませんが、腕を下ろしてボールがさらにいかなくなったのが実際のところなので、葛藤がすごくありました。でも、そういうことも含めて、手術する前は野球のことで悩めていたので、すごく幸せだったんだと思いますね。手術後は投げることが当たり前ではなくなって、体のことで悩むようになりました。野球で悩めることは楽しいことだと気付きましたね。

ラストシーンは同級生との対決

背番号「124」を着けて復帰を目指した育成時代 【写真=BBM】

 15年4月26日の本拠地・阪神戦。2点を先制された6回、なお2死満塁のピンチで救援のマウンドに上がった。1人目の鳥谷敬に対し、カウント2−2から投じたスライダーは、走者一掃の三塁打に。「左を抑えるため」の宝刀を見事に弾き返された。その後、ゴメスに適時二塁打を浴びて失点し、福留孝介を一ゴロに抑え、イニングを終えたところでお役御免。これが最後の1軍舞台となった。

――最後のマウンドに悔しさはありませんか?

 あの試合が最後になるとは、登板後は思っていませんでしたが、抑えて最後というよりは打たれて散ったっていうか……。いまから思うと、同級生の鳥谷に息の根を止められてしまいましたね。

――左中間への飛球でしたが、2死満塁で前進守備を敷いていなければ、センターの丸佳浩選手が捕れた打球に見えました。

 あれは完全にやられました。フォアボールもダメな場面だったので、ストライクゾーンで勝負にいった結果、きれいに弾き返されてフェンス際まで飛ばされたんで。鳥谷とは深くしゃべったことはないんですけど、東京のシニア時代から知っている存在です。聖望学園高でも甲子園に行って、東京六大学の早稲田で有名になって阪神に入り、球界を代表するショートになりました。同級生ですけど尊敬できる選手で、最後に対戦できて良い思い出になりましたね。

――広島で過ごした16年はどのようなものでしたか。

 縁もゆかりもない広島で16年プロ野球選手をやって、この正月も実家のある横浜から広島に向かうときに“帰る”という気持ちになっているんですよ。東京は小1から高3までだったので、実際に16年住んだ広島が一番長くいるところになりました。広島っていいところだと思いますよ。街は大き過ぎず、小さ過ぎず、自然があって、食べ物もおいしい。本当に広島が好きになりました。それも応援してくださった皆さんがいたからです。16年で16勝しかできず、球団やファンの方々の期待には応えられませんでしたが、自分の中には出し切れた思いがすごくあります。手術してからの経験では人間的に大きく成長させてもらいました。引退して、これからの人生のほうが長いですけど、16年を宝物に過ごしていけると思います。

プロフィール:河内貴哉(かわうち

1982年1月6日生まれ。京都府出身。左投左打。188センチ、94キロ。国学院久我山高から00年ドラフト1位で広島入団。入団1年目、巨人戦初先発で初勝利を挙げた。04年には自己最多の8勝を挙げ、オールスターに出場。以降は左肩痛に苦しみ、08年に左肩関節唇と腱板の再建手術を受けた。10年からは育成契約としてリハビリを継続。12年に支配下登録され、その年一軍復帰、28試合に登板した。13年はリリーフで21試合連続無失点を記録。15年限りで現役引退し、球団広報として第2の人生を歩む。

2/2ページ

著者プロフィール

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント