最初の関門を突破したU−18日本 「ここからが勝負」の東京五輪世代

川端暁彦

緊張をはね除ける強さを見せた選手

3試合連続ゴールを奪った小川(中央)。FWには明確な点取り屋タイプが並ぶ 【佐藤博之】

 日本サッカーの未来を担う東京五輪世代が最初の関門をこじ開けてみせた。10月2日から6日にかけて行われたAFC U−19選手権予選。1997年1月1日以降に生まれた選手たちで構成されるU−18日本代表は、初戦で地元のラオスを2−0、続いてフィリピンを6−0、そして最終戦で最大のライバルと目されたオーストラリアを3−0の大差で下し、U−20ワールドカップ(W杯)の出場権が懸かるAFC U−19選手権本大会(来年秋にバーレーンで開催)への切符を勝ち取った。

 オーストラリアと同居する組み合わせの妙もあり、最終戦まで2勝してなおかつ得失点差も稼いでおく必要があるというプレッシャーの中での戦いだった。選手たちの口から次々に「緊張してしまった」という言葉が漏れたように初戦から日本の足は重く、「普段では考えられないようなミスばかりだった」と内山篤監督も愕然とするような事態になった。ただ、「それが予選のプレッシャー」(同監督)でもある。そして、はね除ける強さを見せる選手も同時にいた。

 まずはチームとして硬直し、前半半ばまでシュートすら打てなかったラオスとの初戦でFW小川航基(桐光学園高)が魅せた。39分、ペナルティーエリア手前でボールを受けると、迷わず前を向いてのミドルシュートを選択。「パスコースも見えていた」と正直に言うが、内山監督からも「アイツはストライカー」と評される男は迷いなくゴールへと振り抜いて、チームを心理面で解放する最初の1点を奪い取った。

明確な点取り屋タイプが並ぶFW

 小川はU−18日本代表に呼ばれるまで代表歴をまるで持たないが、そもそも県の国体選抜にも入っていなかった選手である。横浜の新興クラブ・大豆戸FCから桐光学園に進んで1年生からレギュラーに大抜擢(ばってき)されると、そこで実績と実力を積み上げて代表入り。最初は周囲との関係性もぎこちない面があったが、ゴールという結果を残し続けて首脳陣と僚友の信頼を獲得していった。

 練習試合などでは「いま出せよ!」「ここは裏だろ!」といったストレートな要求を味方に飛ばし続け、「自分の欲しい位置とタイミングを伝えることは大事」という姿勢を表に出す姿が印象的。まさにストライカーらしいストライカーとして、チームのエースになっていったが、値千金だったこのゴールはその看板に偽りがないことを証明するものだった。続くフィリピン戦でも途中出場から瞬く間にゴールを奪い、最終戦では相手のハードマークを逆用して2つのPKを奪取。1つを自ら決めて、3戦連続3得点という数字を残して大会を締めくくった。

 オーソドックスなサッカーを志向する内山監督は、FWに明確な点取り屋タイプを置くことを好んできた。献身性とゴールへの飽くなき姿勢を持つ岸本武流(セレッソ大阪U−18)、根っからの点取り屋タイプで同じ九州男児の大久保嘉人を彷彿とさせる吉平翼(大分トリニータU−18)、FWになったのは高校の途中からという異色派ながら体を張ってターゲットになれる一美和成(大津高)と、小川以外も「いかにも」というタイプばかり。「日本にはストライカーがいないからどうするか」という発想ではなく、「いないからこそ、ストライカーを育てるんだ」というメッセージが、選考にも戦い方にも打ち出されている。下の年代での代表歴がほとんどなかった選手ばかりなのも、そうした発想の転換を感じさせる。

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著者プロフィール

1979年8月7日生まれ。大分県中津市出身。フリーライターとして取材活動を始め、2004年10月に創刊したサッカー専門新聞『エル・ゴラッソ』の創刊事業に参画。創刊後は同紙の記者、編集者として活動し、2010年からは3年にわたって編集長を務めた。2013年8月からフリーランスとしての活動を再開。古巣の『エル・ゴラッソ』をはじめ、『スポーツナビ』『サッカーキング』『フットボリスタ』『サッカークリニック』『GOAL』など各種媒体にライターとして寄稿するほか、フリーの編集者としての活動も行っている。近著に『2050年W杯 日本代表優勝プラン』(ソル・メディア)がある

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