監督は9回、小笠原に代打を考えていた 東海大相模の優勝は“動いた”結果

楊順行

小笠原にいい風が吹いていた

45年ぶり2度目の全国制覇を果たした東海大相模。故・原貢元監督と門馬監督の“動く”野球が結実した瞬間となった 【写真は共同】

 甲子園には魔物が、いや、天使がいたというべきか。6対6の8回裏である。東海大相模(神奈川)の門馬敬治監督は、エース小笠原慎之介から始まる9回の攻撃で、代打を考えていた。速攻で先制しながら6回に追いつかれ、しかも打線は、立ち直った仙台育英(宮城)のエース佐藤世那の前に、5回から8回まで無安打に抑えられている。流れは、どちらかというと育英。だからこそ動こうというのが、エースへの代打策だ。

 ところが、8回2死。小笠原が打席の谷津航大に死球を与えたかに見えたが、球審の判定は三振。コースはストライクだったためだ。これはまだ、小笠原にいい風が吹いているぞ。門馬監督はそうひらめき、代打策をやめて9回、小笠原をそのまま打席に送った。

 初球。「フォークに絞り、空振りでもいいつもりで」小笠原が125キロの甘いフォークを強振すると、打球は右中間スタンドへの勝ち越しアーチとなった。打った小笠原本人さえびっくり顔の勝ち越し点を、門馬監督は実は見ていない。ダグアウトの下段で、登板させる予定だった吉田凌と捕手の長倉蓮に話をしていたからだ。門馬監督は言う。

「すごい歓声にグラウンドを見たら、小笠原が二塁ベースあたりを回っている。外野フライでアウトになって引き揚げてくるのかな、と思ったらホームランでしょう。まるで想定外ですよ。思わず、帰ってきた小笠原に抱きついてしまいました」

原貢氏から学んだ“動く”野球

 東海大相模は小笠原のホームランのあとも、4安打を集中して決定的な3点を追加し、10対6。1970年以来、45年ぶり2度目の夏の優勝を遂げることになる。その70年に率いていたのは、原貢監督だった。巨人・原辰徳監督の父。そして門馬監督にとっても東海大時代の恩師で、同大のコーチ時代にも、多大な薫陶を受けた。振り返る。

「原先生からは、常に“動け”と言われました。ただ、無鉄砲に動くだけが動くことじゃない。例えば、先生と将棋を指すと、僕はがんがん攻めていくんですが、そういう性格を見て、“守りも攻めになるんだぞ”とおっしゃるんです。決勝ではあえて小笠原に代打を送らなかったことが、結果的に“動いた”ことになったと思います」

 僕の取り柄は、動くことしかないという門馬監督。確かに、優勝した2011年センバツでも持ち味はアグレッシブ・ベースボールで、この夏も積極的に“動いた”。初戦となった聖光学院(福島)との2回戦は、足をからめて初回2死から4得点。遊学館(石川)との3回戦もやはり初回、バスターエンドランを決めるなどで4得点。花咲徳栄(埼玉)との準々決勝こそ初回無得点だったが、関東一(東東京)との準決勝も初回の先頭打者から5連打で4点。そして決勝でも初回に2点。特徴的なのは、聖光学院戦を別にしていずれも初回のチャンスにバントを用いないことだ。高校野球の定番ではなく、エンドランなどでとことんアグレッシブにいく。

 決勝で先制二塁打を放ち、個人1大会最多二塁打6のタイ記録を達成した杉崎成輝によると、「序盤は、ほとんどバントはしません。エンドランなどで仕掛けることが多いですね。バントをするのはむしろ、大差をつけてからです。そして、負けているときこそ動け、というのも監督の考えです」

 小笠原と吉田の投の2枚看板を持ち、打線も充実と、大会前から優勝候補の一角だった東海大相模。門馬監督の恩師である原貢氏は昨年、他界した。東海大相模のグラウンドには、その功績をたたえる石碑がある。門馬監督は神奈川大会では毎日、その石碑を磨き、「力を貸しください」とあいさつしてから球場に向かったという。

「もし許されるなら、今日もそれをしてから甲子園に来たかった」と笑わせた決勝のスコア。くしくも、45年前と同じ10対6である。そして原貢氏はちょうど今年、日本高野連から育成功労賞を受けている。

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著者プロフィール

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。高校野球の春夏の甲子園取材は、2019年夏で57回を数える。

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