名門・PL学園を取り巻く厳しい現実 再建へ一筋の光も、教団の意向は見えず

週刊ベースボールONLINE

かつてはLA旅行に豪華な差し入れも

 登りゆく勢いのあった1970年代後半の頃はおしえおや(教祖)の誕生祭には学校敷地内を使い全校生徒による壮大な焼き肉パーティーが開かれていたという。夏の全国制覇の後には、野球部の3年生全員でロサンゼルス旅行に出たときもあった(修学旅行に試合の関係で行けなかったための代替と優勝の褒美を兼ねたもの)。

 また、野球部専用の研志寮で暮らす野球部員には日常的に豪華な差し入れもあった。あるOBは語る。

「西田(真二)さん、木戸(克彦)さんの時代は、テキ(ビフテキ)1人2枚がしょっちゅうだったと聞いてます。そのあと2枚が1枚になって90年代後半になると、たまのウナ丼くらいに……」

 笑い話のようで、時々の教団の状況、野球部に対する期待が伝わってくる。この頃の学内での合言葉は「勉強は東大! 野球は甲子園!」。特に2代目のおしえおやは野球部への関心が高く、教団の中枢にも部を力強くバックアップする人物がいたという。

 83年に26歳の若さで後継となった3代目(現教祖)についてもある関係者は「野球は嫌いじゃなかったですし、球場まで試合を見に来られることもありました」と言った。ただ、「野球部も特別ではなく、いちクラブ活動というスタンスは3代目になった頃から少しずつ強くなった気はします」とも。その3代目が体を患い、業務を夫人らが執り行うようになって以降、さまざまなゆがみ、滞りも増えてきたようだ。

 学校の人事も含め決定権は理事ではなく教団トップが持つPL学園特有の難しさに加え、時代とのズレ……。ある者は、教団、学校が傾き始める中、まだ所々で“特別感”を残していた野球部に、批判的な感情が生まれていったのでは、と指摘した。そこへ野球部内の暴力問題などが繰り返し起き、いよいよフォローする者もいなくなった、と。

力の差がある2年生、秋以降は合同練習も

 そして今。廃部の危機もささやかれる中、勝負の夏が迫る。部員数は現在3年生21人と2年生の12人のみ。2年生は一般入学の生徒で代々の選手たちとは大きな力の差があるだろう。

 その上、夏以降はケガ人が出ると大会参加も危うくなる人数。それを見越し、コーチ陣らが合同練習を他校に申し込むなど、新チーム後の姿はPL学園の野球部として相当なつらさを想像させる。その前に、この夏だ。勝ち進むことで何かが変わり、何かが動くことを願いつつも、多くのOBはこの先に訪れるかもしれない最悪の事態を覚悟していた。

 ところが、夏の抽選後、PL学園に関するいくつかの報道が出た。例えば、抽選会の直後、新入部員の募集再開について問われた池田秀男部長が「はっきりしていない。未定という段階」と話したというもの。

 あるいは学校関係者が「今の2年生が卒業した後(17年度)から新しい部員を受け入れる可能性があると聞いています」と語ったとされるもの。4月の時点で草野監督も「PLとしてキチッと活動できるようになれば、おのずと道は開けてくる」と語っていたが、後者の報道が真実なら、3カ月前の言葉もここへつながっていたのか……と希望的にとらえたくなる。

 ただ、風を感じた抽選結果に続き、存続、再建へ向け一筋の光を感じながら、現時点では教団上層部の意向は見えないまま。何より学校再建の明確なビジョンがない限り、野球部のこの先も見えてはこない。果たしてそこが描かれているのか。

 6月半ば、練習グラウンドを訪ねると26歳と若い千葉智哉コーチが硬い表情を崩すことなく語った。「『与えられた環境でどれだけのことがやれるのか、そこが試されてるぞ』。選手にはいつもそう言っているんです」。チームとしては試合への入り、ベンチワークを選手間でも磨きながら、打線は1試合7点をノルマに春以降鍛えてきたという。

 まもなく始まる戦いの結果がどこへつながっていくのか。これまで幾度も土壇場の勝負を制してきた高校球界の王者、PL学園。耳慣れたあのフレーズのように……。“永遠の学園”として、その道は続いていくのだろうか。

(取材・文=谷上史朗)

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