39歳で外野手に、松井稼頭央の勇気 元個人コーチが語る身体能力以外の才能

中島大輔

基礎から守備を鍛えた2年間

守備練習を行うロッキーズ時代の松井。熊澤氏との基礎練習が実を結びリーグを代表する二塁手としてワールドシリーズ出場も果たした 【写真:アフロスポーツ】

 トリプルスリーを達成した翌年の03年オフ、松井はメジャー移籍を決断する。鳴り物入りで海を渡ったが、難しい2年間を過ごした。度重なる故障や腰痛に悩まされ、05年にはショートからセカンドに配置転換されている。二塁ベースでの交錯プレーで悪質なスライディングをくらい、戦線離脱を強いられた。満身創痍のまま87試合の出場にとどまり、打率は2割5分5厘に沈んだ。

「このままではちょっと、終わっちゃうかもしれません。パーソナルコーチとして、一緒に米国でやってくれませんか?」

 松井が電話で救いの手を求めたのが、熊澤氏だった。悩んだ末、熊澤氏は西武の職を辞し、生活のほぼすべてを松井に捧げることに決める。松井の野球への情熱をよく理解しており、さらに「ここを直せば良くなる」と分かっていたからだ。

「ケガがあり、満足のいく練習をできなかったことで、単純に走力と身体能力が落ちていました。技術的なところでは、守備に問題が多かった。そこをきちんとやろう、と。これは仕方ない部分もあるのですが、日本では人工芝野球になってきて、はっきり言って内野手の守備はサーカス。米国で活躍するのは、ともてじゃないけど無理です」

 熊澤氏は西武に入団した2年間で、守備を徹底的に鍛えられた。故・根本陸夫管理部長が築き上げた育成方針の下、守備コーチと基本から築き上げた。

 だが94年、森祇晶監督の退任とともにポスト黄金時代を迎え、きめ細かい守備がチームから失われていく。松井が西武に入ってきたのは、そうしたころだった。米国に移籍して2年間苦しんだ理由は、ここに通じると熊澤氏が指摘する。

「カズがかわいそうだったのは、そのときのコーチがあいつの天才的なところだけに喝采を送っていたわけです。カズにショートを守らせておけば、人が捕れないところを捕ってアウトにする。でも実際にはエラーも多いし、そのエラーはスローイングだったりする。それをきちんとやっておかなかったのが一番の問題で、言うなればメジャーでのケガにつながった。2年目にセカンドのゲッツーで膝を故障したのは、正しく足を使っていれば防げたものです」

稼頭央を魅了したボンズのキャッチボール

 05年オフ、パーソナルコーチとして渡米した熊澤氏は松井に基礎練習を徹底させた。例えば手でゴロを転がし、それを捕って投げるという極めて地味なメニューだ。すでに一流の地位を築き上げた松井が、反復練習で守備の基本を身体に染み込ませるという入団したての若手レベルからやり直せたのは、勇気にほかならないと熊澤氏は賞賛する。

「普通、あれだけ実績のある選手は変え切れないですよ。基礎練習を反復したことで、カズのレベルは上がりました。というのは、野球をすることが筋肉の強化につながるからです。正しい動作を繰り返し、繰り返しやるのが一番いいんです」

 日本ではメジャーリーガーの驚異的身体能力ばかりに目を向ける傾向にあるが、一流選手は総じて基礎練習を積み重ねている。アンドレルトン・シモンズ(ブレーブス)や昨年の日米野球で来日したアルシデル・エスコバル(ナショナルズ)というショートが超人的プレーを見せられる背景には、マニュアル化された基本練習を繰り返してきたことがある。「日本人は基本に忠実すぎるから、応用が利かない」という声も耳にするが、一流のメジャーリーガーは「基礎が確実にできているから応用が利く」のだ。

 松井と熊澤氏がそう再確認したのは、バリー・ボンズ(当時ジャイアンツ)を見たときのことだった。07年シーズンのキャンプインを控え、松井とボンズはたまたまロサンゼルスの同じ場所で自主トレに励んでいた。

 何気ない会話を交わしているうちに、一緒にキャッチボールを行うようになった。ボンズの動作は茶道の達人が見せる所作のごとく美しく、熊澤氏は見とれていた。

「捕って、投げるという動作がずっと同じ動きなんです。ステップも一緒だし、そういうふうに体の使い方がなっている。何とも言えないオーラと雰囲気に、『ほおー』ってなりましたね。あのときのボンズは晩年ですけど、『きれいに投げるなあ。やっぱり、一流選手はこうだよなあ』ってカズと話していました」

 基礎練習で作り上げたものは、優れた身体能力を持つ松井の土台となった。基本や技術と結びついてこそ、パワーやスピードは生きてくる。さらに言えば、正しい動きを心がけることが身体のバランスを整えることにつながり、それが腰痛の予防にも結びつく。端的に言えば、身体にかかる負荷がうまく分散されるからだ。

 そうして松井はチューンアップし、ロッキーズに移籍して2年目の07年、地道な努力が身を結ぶ。上位打線を任され、セカンドのレギュラーとしてワールドシリーズ出場に大きく貢献したのだ。そしてアストロズで3シーズンを過ごした後の11年、活躍の場所を楽天に移した。

活躍のカギは老いへの対応

 だが、35歳で日本球界に復帰した松井は全盛期のような成績を残しているわけではない。サードとして出場した14年6月18日の広島戦でセカンドまで約25メートルのバックトスを見せたように、超人的プレーは健在だが、4年間で1度も打率3割を超えていない。昨季途中には「1年でも長くプレーしたい」と考え、外野での出場を直訴した。

 冒頭で述べたように、松井ほどの身体能力と運動センスがあれば、外野の守備は難なくこなすはずだ。今後のポイントは、ほかの点にあると熊澤氏は見ている。

「老化が始まっているので、その対応をどうしていくかが今後の大きな課題になると思います。例えば金曜にナイターで翌日にデーゲームの場合、土曜は監督と話してスタメンを外れて代打だけにする。別に恥ずかしいことではないので、積極的にやっていけばいい。1年間トータルで考えれば、打率3割1、2分くらいは軽くできるはず。外野を守るなら、首位打者を見たいですね。大きいのを狙わずにいけば、絶対首位打者をとれると思う」

 40歳を迎えようとしてなお、新境地を開こうとする姿は真のプロフェッショナルというに尽きる。熊澤氏の期待するように、不惑にして初めての首位打者に輝くような活躍を見せたとき、トリプルスリーを達成したころ以上の喝采を浴びているはずだ。

熊澤とおる氏プロフィール

1973年9月7日生まれ。所沢商高から91年ドラフト3位で西武に入団。98年に現役引退後は同球団の2軍サブマネージャーなど球団スタッフとして勤務。2005年オフに西武時代の2年後輩、松井稼頭央のパーソナルコーチとして渡米し、2シーズンに渡り松井を支える。07年秋からは西武の1軍打撃コーチなどを歴任し11年に退団。現在はリハビリ施設を立ち上げ、技術だけでなくトータルケアを行っている。

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著者プロフィール

1979年埼玉県生まれ。上智大学在学中からスポーツライター、編集者として活動。05年夏、セルティックの中村俊輔を追い掛けてスコットランドに渡り、4年間密着取材。帰国後は主に野球を取材。新著に『プロ野球 FA宣言の闇』。2013年から中南米野球の取材を行い、2017年に上梓した『中南米野球はなぜ強いのか』(ともに亜紀書房)がミズノスポーツライター賞の優秀賞。その他の著書に『野球消滅』(新潮新書)と『人を育てる名監督の教え』(双葉社)がある。

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