“眞鍋流”を支える敏腕コーチの人間力 バレー眞鍋監督・女子力の生かし方 第11回

高島三幸

米国ナショナルチームでコーチしたユニークな経歴を持つ川北氏 【スポーツナビ】

 全日本女子バレーボールチームを率いる眞鍋政義監督による本連載。第11回は、前回のチーフアナリスト・渡辺啓太氏へのインタビュー(8月19日掲載「側近データマンが語った“眞鍋流”」)に続き、チームスタッフの言葉から“眞鍋流”を読み解く。

 今回は、眞鍋監督が「バレーボールが大好きなとても面白い経歴のコーチ」と称する、戦術・戦略コーチの川北元氏。2016年リオデジャネイロ五輪で金メダルを獲得するために、指揮官が自分の側に置いて任せたいコーチとはどんな人材なのか。また、川北氏が見た眞鍋監督とは――。本人に話を聞いた。

25歳で渡米「指導者の道を極めるしかない」

――川北コーチは戦術・戦略コーチとして活躍されていますが、どのような経緯で全日本女子バレーボールチームに入られたのでしょうか?

 順天堂大大学院を修了し、同大のバレーボール部のコーチをしていました。でも、指導者だけでは食べてはいけませんから、幼稚園で体育の先生をしたり、中学・高校の非常勤講師として働いたりして生活費を稼ぎながら、指導していたんです。朝5時に起きて東京の高校に出勤し、幼稚園がある千葉の船橋へ移動して、それから佐倉の順天堂大へ向かうような毎日を送っていました。でも、この状態では指導者としてステップアップできないと思い始めたんです。

――そう思われたのはなぜですか?

 大学院でコーチング科学を勉強して知識は詰め込んでいましたが、それを生かす経験が積めていないというジレンマを抱えていて、指導者としては中途半端な気がしていました。自分の力のなさを痛感する日々でしたね。私はバレーボールが大好きで、選手としてはそれで食べていくことはできなかったのですが、バレーの世界で生きていきたいとは思っていたんです。そうであれば、指導者としての道をもっと極めるしかないと。だから、今の生活を一旦リセットしてゼロから出発しようと思いました。

――指導者としてのキャリアを磨くために、集中しようと思われたんですね。

 はい。バレーボールの発祥地であり、当時、世界ランキング1位だった米国に単身で渡り、実績ある指導者から学ぶため、片っ端から門をたたいていきました。どうせ学ぶなら、世界一の指導法を学びたいと考えて。単純に一流と呼ばれる指導者が選手の能力をどのように見い出し、どんな指導をしているのか、この目で見たかったのです。英語もろくにしゃべれなかったんですけどね(笑)。00年のシドニー五輪が終わった直後の、25歳の時でした。

米国ナショナルチームで学んだこと

ロンドン五輪では選手とともに銅メダル獲得に歓喜した 【Getty Images】

――何のツテもなく?

 まったく。中学レベルの英単語を並べて、お会いしたい指導者にメールを送りました。返事がなくても渡米しようと覚悟していましたが、思いがけず返信をいただき、なけなしのお金をすべてはたいて海を渡りました。ユタ州のプロボという街にあるブリガムヤング大学バレーボール部の監督で、バレーボール界では非常に有名な指導者のカール・マクガウンさんです。安いホテルを転々とし、安い自転車を買ってホテルと大学を行き来しました。

 当初は90日のワーキングビザを使うつもりだったので、マクガウンさんの元で1カ月お世話になり、その後、米国のナショナルチームが拠点を置く、コロラドスプリングスに押し掛けて、残りの60日間をお世話になろうと考えていました。大学で無償でお手伝いさせてもらっている間、全米のいろんな指導者がその大学の練習を見学にいらっしゃっていて、そこで、トム・ジャスティスという、ペンシルバニアにある小さな州立大学の監督に「君、仕事はあるのか? うちの大学にアシスタントコーチとして来ないか」と声をかけていただきました。

 とてもありがたい話だったのですが、私はお金をもらえる実績のある指導者ではなかったので、住む家と食事を確保していただき、1カ月でもいいから語学学校に通わせてもらえれば、最低1年間はタダで働くという条件でお願いしました。すると快諾してくださって、半年はその大学で12人ほどの部員を指導し、半年はナショナルチームに戻って指導するという状態を、7年ほど繰り返したんです。
 そして、08年北京五輪で米国は銀メダルを獲得し、コーチとして米国の国旗が上がっていく瞬間を目にすることができました。
 
――夢のようなお話なのですが、ナショナルチームの指導は雇用という形ですか?

 最初はボランティアです。05年に、今、中国女子の監督をされている郎平さんが米国ナショナルチーム監督に就任され、スタッフは総入れ替えになりました。04年のアテネ五輪では中国が優勝していましたし、北京五輪に向けて中国の指導者から教わる機会を逃したくないと思った私は、アポなしで郎平さんに会いに行って交渉しました。そして、2〜3日テストを受け、ナショナルコーチとしてサポートさせてもらうことになったんです。それから半年大学、半年ナショナルチームで指導する生活が始まりました。
   
――米国ナショナルチームで学んだことは何でしょうか?

 米国では選手も指導者も皆プロ意識が高い。自分の得意分野を積極的に表現していかないと誰も相手にしてくれないんですよ。だから、しっかり表現するコミュニケーション能力が必要だと感じました。指導者なら、自分が伝えたいことをしっかり伝えられる能力。日本のように察する文化ではないので、明確に伝えなければ選手は誰も理解してくれません。
 さらに言えば、表現することが苦手な選手は、どんなに能力が高くても監督から目を付けてもらいにくいので、レギュラーとして残れない。そこで、その選手の良さを発信できるように導き、その選手がバレーの世界で生き残れるように道を照らしてあげるのも、コーチの役目なのだと学びました。

 のちに日本で指導することになった時、日本選手の方が海外選手に比べてアピールが苦手ですので、米国で鍛えられた能力と気づきは役立ちましたね。

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著者プロフィール

ビジネスの視点からスポーツを分析する記事を得意とする。アスリートの思考やメンタル面に興味があり、取材活動を行う。日経Gooday「有森裕子の『Coolランニング』」、日経ビジネスオンラインの連載「『世界で勝てる人』を育てる〜平井伯昌の流儀」などの執筆を担当。元陸上競技短距離選手。主な実績は、日本陸上競技選手権大会200m5位、日本陸上競技選手権リレー競技大会4×100mリレー優勝。

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