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雄平、山口俊、濱田達郎から学ぶ
苦難を突破した男たちの成功哲学とは?

 人は困難に直面したとき、その真価が問われる。特に数字で結果が表れるプロ野球選手ならなおさらのことだ。思うように結果が出ないとき、どのような方法論で突破口を開いたのか。ここでは今季、苦難を乗り越え開花した東京ヤクルト・雄平、横浜DeNA・山口俊、中日・濱田達郎をピックアップ。“突破者”たちの成功哲学とは?

ヤクルト・雄平、プロ野球人生をかけた決断で貫いた“全力疾走”

現在12本塁打をマークしてるヤクルト・雄平。これはセ・リーグで日本人トップの成績だ
現在12本塁打をマークしてるヤクルト・雄平。これはセ・リーグで日本人トップの成績だ【写真=BBM】

 人生初のタイトルとなる5月の月間MVPを獲得した雄平は、「転向させてもらった球団に感謝しています」と会見場で笑顔を見せた。


 2002年のドラフトで、当時151キロ左腕として注目を集めていた18歳は、大阪近鉄との競合の末に、当時の若松勉監督が交渉権を得てヤクルトへ入団した。大きな期待をかけられた1年目には5勝を挙げたが、防御率は5.03。04、05年には4勝しか挙げられず、06年から中継ぎとしての登板が増えていく。深刻な制球難に苦しみ、それを気にするあまり自慢の速球も鳴りを潜めていった。


 08、09年にはついに1試合ずつの登板にとどまると09年オフに、首脳陣から打者転向を打診される。高校通算36本塁打の雄平は肩の強さと打撃センスには定評があった。それでも投手としての道を断つのには時間がかかった。一度はサイドスロー転向を当時の高田繁監督に直訴。しかし翌日には「やっぱり野手でいきます」と申し出た。それだけ迷い、葛藤し、下した大きな決断だったのだ。「一度はクビになったようなもの。とにかくやるしかないです」とその後は連日、室内練習場に残り、打撃マシンと向き合った。


 10、11年は1軍出場こそなかったが、2軍ではともに90試合以上に出場し10年は打率2割8分3厘、11年は3割3分と確実にステップアップした。そして12年には1軍で47試合に出場し、打率2割8分を記録するとそのオフ、小川淳司監督から外野手とワンポイントリリーフの“二刀流”を打診された。しかし、「野手1本に専念させてください」と志願。そのときにはもう覚悟は決まっていた。


 レギュラーをつかみかけた13年4月、さらなる悲劇が雄平を襲う。右膝前十字じん帯断裂。5月に手術を受け1年を棒に振ることに。ケガ以降は2軍でも出場がなかったが、それでも1軍の舞台に戻ってきた。「悔しい気持ちを今年にぶつけている」とここまでの戦いを振り返る。初めて開幕戦で先発出場を果たすと、以降は5番に定着し、チームの中心にどっかりと座っている。月間MVPに選ばれた5月には打率3割6分4厘、8本塁打、19打点。さらに猛打賞4回を含む13試合でのマルチ安打に、自身初の2ケタ本塁打と、これまでの苦労と努力が花を咲かせ始めた。


 プロ12年目、野手転向5年目となった雄平は「転向したときはこういった賞を取れるとは想像していなかった。毎日をがむしゃらにやってきました」とこれまでの日々を振り返った。「だけどこれからが大事。まだ1年間1軍で出続けたことはないので、まずは1軍で毎日試合に出られるように安定した成績を残すだけです」と気を引き締めた。


 雄平には野手へ転向したときに決めたことがある。それは“全力疾走”だ。「技術はないけど走ることはできるので、そこは挑戦しようかなと思っていた」と話す。膝に大ケガを負っても、技術力が増してもなお、その姿勢は変わらない。「課題もたくさんありますし、まだまだやるべきことはたくさんあるので、こういった賞をまた取れるような選手になっていきたい」


 さらなる向上心を胸に、打者・雄平は今日もひたむきにバットを振り続ける。

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