大谷翔平は違う……真の速球投手は誰だ!? 球速ではなく球威、独断的速球投手論

週刊ベースボールONLINE

荒れ球シュートを操った森安敏明氏

どこに来るか分からない超荒れ球の森安敏明氏は、「打てるなら、打ってみろ!」の乱暴さが魅力になっていた 【写真=BBM】

 速球男の中でも「打てるなら、打ってみろ!」の乱暴さが魅力になっていた投手は、森安敏明氏(元東映)だ。対戦した打者たちは「一番速いかどうかは分からないが、一番怖かったのは確か」と口をそろえる。

 筆者は、速さも山口氏に近いものがあったと思う。そのボールが顔のあたりを襲うのだから、これはたまったものではない。有藤通世氏(元ロッテ)が「(森安は)ピッチングより、ぶつけるコントロールの方が良かった」と苦笑していたが、明らかに報復と疑われても仕方がない投球もあったが、荒れ球の超スピード・シュートがほとんどだったから、ちょっと手元が狂ったら大ごとになってしまう危険があった。

 ただし、打者ではなく森安氏本人にとって大ごとになってしまうことがしばしばだった。右打者にとって、ヒザ元に食い込むのではなく、外から真ん中に曲がってくる投げそこないのシュートほど“おいしいもの”はないからである。プロ初登板が完封だった(66年4月13日、南海戦で1対0)が、南海の打者は恐ろしくて腰が引けっぱなしだったのだろう。

 しかし、慣れられると、甘くなったシュートをポンポンホームランされ、69年にはホームラン配給王(34本)。四球王も2度。それでも、どこに来るか分からない超荒れ球(68年の22死球はプロ野球最多記録)の持ち主が66〜70年の5シーズンで242試合(“黒い霧事件”で永久失格選手となった70年は14試合)も投げることができたのは、球速とともに「球威」があったからである。森安氏も筆者の好きな「どうだ、食え!」の投手である。

江夏氏は初速と終速に差がなかった

低めのストレートに球威があり、初速と終速に差がなかったという江夏氏の真っすぐ 【写真=BBM】

 山口、森安の両氏のほかに、筆者の目で見て「速い!」と感じたのは、平松政次氏(元大洋)。平松氏は「カミソリシュート」を話題にされても、そのスピードはほとんど話題にされないが、とにかく速かった。長嶋茂雄氏(元巨人)が、1割台に抑えられたのは、シュートを嫌がったこともあるが、やっぱり速さに負けたのである。

 その長嶋氏が「一番速かった」と言うのが松岡弘氏(元ヤクルト)。この人の速球はズド〜ンと来る感じだったが、後楽園で堀内恒夫氏(元巨人)と投げ合った試合を鮮明に覚えている。何がそんなに鮮明だったのかと言えば「松岡と投げると堀内が遅く見える!」という、新鮮な“発見”があったからである。この記憶が鮮明なのだ。

 江夏豊氏(元阪神ほか)がなかなか登場しないので不満の読者がいるかもしれないが、筆者は、そう速いとは思わなかった。ただし、これは目の印象であって、当時スピードガンがあれば、相当の数字をたたき出したかもしれない。
 ある人が「江夏のボールはグラウンドと平行に、グングン、グングンやってくる感じ」と表現したが、低めのストレートに球威があり、しかも、初速と終速に差がないということの表現なのだろう。

 もっとも王貞治氏(元巨人)は、江夏氏の頭あたりの高さのストレートをよく振らされていた。その球に手を出さざるを得ない状況を作る江夏氏の天才的投球術のなせるワザだった。

“神話時代”のプロ野球で速かった四天王は沢村栄治氏(元巨人)、スタルヒン氏(元巨人ほか)、野口二郎氏(元東京セネタースほか)、藤本英雄氏(元巨人ほか)ということになっているのだが、何度も使い回ししているが、「スパーンが沢村でズドーンがスタルヒン」という千葉茂氏(元巨人)の証言からすると、沢村氏、スタルヒン氏はたしかに速かったようだ。

 ただ、この方々は実際に見ていないので筆者の(1)(2)(3)にどう当てはまるのか、当てはまらないのか、これは何とも言えない。ただ、どの投手も「9回から速くなる」タイプだったとは言えそうだ。沢村氏は延長17回を投げ、スタルヒン氏はシーズン42勝、野口氏は延長28回を投げ、藤本氏はシーズン19完封。数字も神話的である。

「メジャーには打ちごろ」金田氏、日米野球で打たれた

400勝投手の金田氏は力が入ったのか、日米野球でよく打たれていた。メジャーの打者にとって「打ちごろのスピード」だったようだ 【写真=BBM】

 310勝をマークした別所毅彦氏(元巨人)も、テレビでしか見ることができなかったが、スタミナは抜群でも(1947年に47完投)、驚くほど速くはなかったという。先の千葉茂氏も「ベー(別所)の球は、わしづかみだったのか、ストレートがベースあたりでスッと落ちるんやな。これが案外効果的だった」と言っているからグ〜ンと来るストレートではなかったようだ。

 その別所に「だれが一番速かったか?」と聞いたら、間髪を入れず「金田(正一、元国鉄ほか)に決まっとるよ。いや、ホンマに速かった」という答えが返ってきたことがある。
 この400勝投手・金田氏も、筆者は、晩年の巨人時代しか知らないので残念である。金田氏が初めてオールスターに登場した51年(これが第1回オールスター)の映像(後楽園の一塁側スタンド上部から撮影したもの)を見たことがあるが、金田氏のボールが前に飛ばないのでパ・リーグの打者が苦笑しているのが印象に残っているが、つまり、フルスイングしているのだが、ファウルにしかならないのだ。その速球は、やはり、高めにグ〜ンと来るボールだったようだ。

 ただ、金田氏は日米野球になると「抑えたる!」と力むのか、よく打たれた。米国チームも“日本一の投手”という評判を知っていたから「カネダをやっつけろ!」と真剣勝負で向かってきた。53年のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦では0勝2敗、防御率は9.78。19回1/3で21失点なのだから、コテンパンと言ってよい。55年のニューヨーク・ヤンキース戦では防御率は6.75と少しよくなったが、0勝2敗。被本塁打4は最多タイ。「メジャーには打ちごろのスピード」と言ってしまっては金田氏には気の毒だが、メジャーも脱帽するスピードではなかったようだ。

中西氏、豊田氏「宅和の球は速かった」

西鉄の中西氏、豊田氏をもって「速かった」と言わしめた南海・宅和氏 【写真=BBM】

 最近「1度見てみたかった」と思う投手が現れた。それは宅和本司氏(元南海ほか)。54年に新人で最多勝、翌55年も最多勝。これは61、62年の権藤博氏(元中日)の“先輩”だ。3年目からガクッと落ちたのも先輩。この宅和氏の速球がすごかったらしい。なにしろ西鉄黄金時代の両雄、中西太氏、豊田泰光氏が口をそろえて「宅和の球は速かった」というのだ。西鉄初Vの54年、宅和氏は西鉄戦に7勝1敗。南海10勝中の7勝だからすごい。55年は5勝4敗と研究されたが、それでも勝ち越し。54年、南海はわずか0.5ゲーム差で優勝を逃すが、18連勝の日本最高記録で、西鉄をあと一歩のところまで追い込んだ。この18勝の3分の1の6勝を宅和氏が稼いでいる。西鉄戦は3勝無敗。これでは中西も豊田も「参った」となるワケだ。寿命が短かった。56年に6勝すると4年目からはまったく勝てなかった(プロ在籍は61年まで)。一体、どんなボールだったのだろう?

 宅和の“後輩”権藤氏は、『週刊ベースボール』での連載企画「“レジェンド”たちに聞け!」で149キロという数字を披露してくれた。恐らくコンスタントにこの前後のスピードボールを投げていたのだろう。61、62年の権藤氏を生で見ている人は、まだ健在だろうから、その印象を教えてほしいものだ。

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