元日本代表とアマチュアが共存するクラブ=J2・J3漫遊記 SC相模原<前篇>

宇都宮徹壱

登録27人のうち15人が働きながらプレー

今季、東京Vから期限付き移籍し相模原でプレーする高原(中央左)。残念ながらこの日はノーゴール 【宇都宮徹壱】

 プレスルームで機材を下ろし、いざカメラを携えてフィールドに向かおうとしたとき、アップを終えたばかりの高原直泰の姿が見えた。チームメートと談笑しながら、悠然とロッカールームへ引き上げていく。時節柄、ワールドカップ(W杯)開幕が近づいているということもあり、どうしても8年前のドイツ大会での記憶が蘇ってくる。「元日本代表」と呼ばれるようになってすでに5年以上が経つが、それでも高原が放つ存在感はJ3の舞台においては別格であった。SC相模原の観客数は早くも「高原効果」が表れ、第9節が行われたこの日も4079人もの観客が詰めかけた。前節終了時点で、平均入場者数が2000人にも満たないJ3にあって、4000人という数字はかなり突出していると言っていい。

 ゴールデンウイークに突入した4月29日、相模原はJリーグU−22選抜(J−22)をホームの相模原ギオンスタジアムに迎えた。第5節からの4戦を3勝1分け無敗と好調を維持し、4位につけていた相模原。対するJ−22は3連勝のあと2連敗、しかも前節の町田ゼルビア戦では0−4と完敗を喫して6位となっていた。

 しかし試合が始まってみると、相模原は両サイドからの攻撃参加と前線の高原とのタイミングが噛み合わず、攻め込んではいるもののなかなかフィニッシュにつながらない。そうこうしているうちに後半36分、相模原はDFのクリアミスを平秀斗(鳥栖)に右足でたたきこまれて失点。結局、これが決勝ゴールとなってしまった。

「ああいう形での0−1(という結果)は残念。前半からテンポが悪く中盤でボールも回らず、サイドチェンジをしようとしてもうまくボールを運べなかった。攻撃の組み立てができず、悪い時間帯で失点してしまいました」

 相模原の木村哲昌監督は試合後、口惜しそうにそう語る。気になったのは、その後のやりとりだ。「敗因は中2日の過密日程か?」という記者からの質問に、木村監督は「コンディションの良い選手を中心にベストのメンバーを選びました。仕事との両立は、あらかじめ決まっていることなので意識はしていません」と答えている。

 「仕事との両立」? 相模原には仕事持ちの選手がそんなにいるのか。会見後、クラブの広報に確認すると、現在所属する27名の選手のうち、プロ契約は半分以下の12名。残り15名は、働きながらプレーを続けているという。なるほど。今季から晴れて「Jクラブ」となった相模原だが、プロ・アマ混在の状況は設立当初からあまり変わっていないようだ。

08年にクラブ設立、10年にはJリーグ準加盟クラブに

Jリーグ準加盟が決まった当時の望月代表。この頃は飛び級でのJFL昇格を楽観していた 【宇都宮徹壱】

 今季から開幕したJ3リーグ。当連載でも、今年からJ2クラブだけでなくJ3クラブにもスポットを当てることにしたわけだが、どこから取材を始めようかと考えたときに思い立ったのが相模原であった。ただし、決め手となったのは高原ではなく、このクラブが持つ尋常ならざるスピード感、さらに言えば、そのスピード感がもたらした光と影である。

 クラブが誕生したのが08年の2月。元日本代表の望月重良が中心となり、翌3月には株式会社スポーツクラブ相模原を設立。以後、神奈川県3部を振り出しに、毎年カテゴリーをひとつずつ上げていく。そして2年後の10年には、県1部ながらJリーグ準加盟クラブ入り。まさにリアル「サカつく」の典型と言えよう。

 その年の4月、私は代表の望月にインタビューする機会を得た。その際に「関東リーグをすっ飛ばして、飛び級でJFLに昇格することも夢ではないのでは?」と尋ねると、若き代表は「そうですね」と、こちらが驚くくらいあっさりとその事実を認めた。この時、望月が思い描いていたのは、おそらく最速で2年後のJ2昇格であったはずだ。準加盟クラブとなったことで、相模原は「Jリーグ加盟を標榜するクラブに対する優遇措置」を受けて、JFL昇格の権利が得られる全国地域リーグ決勝大会(地域決勝)の出場権が得られる可能性があった。望月はこの時、地域決勝のイメージについてこのように語っている。

「試合は見たことがないですが、一番きつい大会であることは知っているつもりです。ただ、そこで僕の経験であったり、Jリーグでの修羅場を知る選手たちの力が発揮されればいいかな、とは思っています」

 この当時の相模原は、監督兼任の秋葉忠宏(元草津)をはじめ、船越優蔵(元東京V)、金澤大将(元水戸)など、およそ県1部とは思えないくらい豪華なメンバーをそろえていた。しかし、首尾よく地域決勝への出場権は獲得するも、10年大会は1次ラウンドで敗退、11年は決勝ラウンド4位で、いずれも昇格ならず。結局、地域決勝の分厚い壁を突破するまでに3年を要した。もっとも、その間も相模原は関東2部、関東1部と着実にステップアップを続け、13年にはJFL、そして今年はJ3リーグ入りを認められ、晴れてJクラブの一員となった。クラブ誕生から、わずか7年目での快挙である。

 08年の立ち上げからクラブ運営に携わってきた専務取締役の小西展臣は「地域決勝があれほど大変な大会だとは思わなかった」と振り返りながら、「それでも、あそこで苦労しておいてよかったかもしれない」と実感を込めて語る。

「もし2010年に地域決勝を突破していたら、その後は知名度やお金の面で苦戦したかもしれないですね。当時は、できるだけ早く上に上がることを重視していましたが、こつこつと支援の輪を広げるために、あちこちに頭を下げて回りながらいろいろなことを学びました。その意味で、クラブ作りというのは勝つことが全てではない。もっとも、負けるとすーっと人が離れていくことも学びました。勝負の世界は厳しいなと(苦笑)」

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。旅先でのフットボールと酒をこよなく愛する。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)

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