アルゼンチンとブラジル、因縁の歴史 南米二強はいかにしてライバルとなったか

藤坂ガルシア千鶴

今もファンから崇拝されているカニーヒア

1990年のW杯でブラジルを破るゴールを決めたカニーヒア(右)は、今もアルゼンチンでファンから崇拝されている 【写真:AP/アフロ】

 アルゼンチンのサッカーファンは、1990年代に代表のFWとして活躍したクラウディオ・カニーヒアを寵愛(ちょうあい)している。別に、ロックミュージシャンを思わせるブロンドのロングヘアに端正な顔立ちをしているからでも、アルゼンチンの二大クラブであるリーベル・プレートとボカ・ジュニアーズの両方でプレーしたからでも、元グラビアモデルの妻と人気タレントの娘を持つ、いかした父親だからでもない。カニーヒアが愛されている理由はただひとつ、1990年ワールドカップ(W杯)・イタリア大会のブラジル戦で痛快な決勝点を決め、ライバルを「葬った」からである。

「ブラジルをW杯から追い出したことは、自分のキャリアにおける最高の思い出だ」

 当時アルゼンチン代表のDFを務めたオスカル・ルジェリの言葉にも表れているように、アルゼンチンの人々にとって、あの大会でブラジルを敗退に追いやった勝利は、その後ファイナルでドイツに惜敗して優勝を逃した悔しさを忘れてしまうほどの快挙だった。そして、その試合で唯一の得点となったゴールを決めたカニーヒアは、あれから四半世紀近く経った今もファンから崇拝されている。それくらい、アルゼンチン人にとってブラジルに勝つことは特別なのだ。

アウェーでは優勝できない弱小国

 南米の二強が初めて対戦したのは1914年のこと。以来、100年もの間、ずっと宿敵として互いに闘志を燃やし続けてきたと思われがちだが、実はそうではない。驚くことに、20世紀の半ばまで、アルゼンチンはブラジルを「ライバル」として意識していなかった。これについて、ブラジルのジャーナリスト、ロベルト・アサフはこのように説明している。

「我が国のサッカーがプロ化された1933年は、どのクラブもアルゼンチン人の選手を獲得したがった。なぜなら、当時はアルゼンチンが断然強く、勢力図ではウルグアイと並んで世界の頂点に立っており、アルゼンチン人がチームにいれば勝てるという確信があったからだ」

 20世紀前半のサッカー界は、アルゼンチンとウルグアイがリードしていた。ラプラタ川を渡ればすぐに対戦できる距離にあった両国は、機会があるごとに代表の親善試合を行い、継続的に競い合うことによってライバル関係を築き、勝利への飽くなき執念によって強靭(きょうじん)なメンタルを養いながら、どんどんレベルを向上させていたのである。

 ブラジルは、この二強に完全に取り残された状態になっていた。南米王者を決めるコパ・アメリカの1950年までの成績を見ると、アルゼンチンが9回、ウルグアイが8回も優勝していたのに対し、ブラジルはわずか3回。しかも、その全てが自国開催の大会であったことから、アルゼンチンとウルグアイからは「アウェーでは優勝できない弱小国」と呼ばれていたほどだった。

 そして訪れた1950年W杯・ブラジル大会。誰もがブラジルの勝利を信じて疑わなかった決勝戦で、ウルグアイが逆転勝利を収めて優勝するという「マラカナッソ」が起きた。

「あの敗戦のショックからしばらくの間、ブラジル人は立ち直ることができなかった。何をやっても失敗するのではないかというトラウマが社会全体に広がり、国中がすっかり意気消沈した状態がかなり長い間続いた」。アサフの言葉からは、マラカナッソが単なる「負け試合」ではなかったことが分かる。「あれは間違いなく国の『大惨事』だった」。

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著者プロフィール

89年よりブエノスアイレス在住。サッカー専門誌、スポーツ誌等にアルゼンチンと南米の情報を執筆。著書に「マラドーナ新たなる闘い」(河出書房新社)、「ストライカーのつくり方」(講談社新書)があり、W杯イヤーの今年、新しく「彼らのルーツ」(実業之日本社/大野美夏氏との共著)、「キャプテンメッシの挑戦」(朝日新聞出版)を出版。

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