原口元気、愛すべき浦和からの旅立ち W杯落選の悔しさを胸に、欧州の舞台へ

島崎英純

プロに入ってから味わった挫折

ヘルタ・ベルリンへの移籍を決めた原口。愛する浦和から旅立ち、欧州の舞台に乗り込む 【Getty Images】

 17歳でユースからトップに昇格した若者は、どこか所在なげで、なにより孤高だった。ボールを持ったら離さない。左サイドからゴール中央へカットインして右足シュート。『俺のゾーン』と公言するこのパターンだけに固執し、その存在意義を誇示することだけがサッカーをプレーする動機のように振る舞った。ひとつ年上だが同時期にトップチームへ引き上げられた山田直輝、濱田水輝、高橋峻希(ヴィッセル神戸)、永田拓也(横浜FC)らとの信頼関係は強固だが、それを表に出さずに不遜な態度を貫く所作に揺るぎない自信をにじませた。

 個人的に、『彼はサッカーをプレーしていて楽しいのかな』と心配したことがある。それを本人に問い質すと、少し戸惑った表情でこう言った。

「うーん、もちろんあらゆる勝負に勝つという思いでプレーをしてきましたけど、ユースの頃までは相手を抜くことだけに喜びを覚えていて、正直自分のゴールや勝利への貢献にはそれほど注力していなかったかもしれないです。今、プロになって思うと、なんてわがままな奴なんだと思いますけどね(笑)」

 エリートの挫折。自らの力を過信し、それが虚構であることを理解した時のショックは計り知れない。原口はそれを、プロサッカー選手になってから味わった。

「幼稚園の頃から、ボールを持ってドリブルをしたら、『誰にも負けねぇ』と思っていました。ボールを持ったら相手を抜ける。それは揺るぎない自信として僕の中にありましたから。でもプロでプレーしたら、そうもいかなくなった。プレーが通用しないんです。そうすると周りからいろいろと言われる。そこで自信をなくす。もう悪循環でした。そして最後には、『俺が一番だ!』とは思えなくなってしまった」

自問と自省を繰り返した日々

 傷心の少年を支えてくれたのは数々の恩師たちだった。2009、2010年にチームを率い、ユースからトップチームに引き上げてくれたフォルカー・フィンケにはプロとしての振る舞いとプレースタイルの矯正を施された。『ドリブル禁止令』なる申し渡しは窮屈さを覚えたが、周囲との連係を駆使して局面を打開し、ひとつの目的へ邁進する意義を教わった。2011シーズンに師事したゼリコ・ペトロヴィッチにはストロングポジションである左ウイングを任されて自由奔放にプレーする裁量を与えられたが、自らの未熟さがあらわになって自問と自省を繰り返し、クラブがJ1残留争いを強いられたことから個人ではなくチームでひとつの目標に向かい勝利することの重要性を痛感した。そして2012シーズンから浦和の指揮を執るミハイロ・ペトロヴィッチには1トップ、トップ下という新たなポジションでの覚醒を促され、さまざまな困難と直面しながらもその経験を血肉とし、日々成長を果たしてきたのだった。

 プロの世界は原口に、プレーだけでなく自己の内面変化ももたらした。それまではドリブルで相手を抜くことを至上として、サッカーへの情熱を自己の達成感へと帰結させていた。いわゆる自己満足。しかし浦和レッズというクラブで監督、選手、クラブスタッフ、そして多くのサポーターに支えながらプレーした結果、彼の中であらがいようのない感情が発露する。

 幼少の頃から『神童』ともてはやされた。江南南サッカー少年団、浦和ジュニアユース、浦和ユースと、全てのアカデミーカテゴリーで全国制覇を成し遂げ、高校2年生の時に飛び級でプロ契約を果たした。備える夢は果てしなく、浦和レッズで明確な結果を得れば、20歳を過ぎる前に海外へ旅立とうと思った。その『明確な結果』とは浦和レッズでのリーグタイトルだ。日本での全カテゴリー制覇を果たして堂々と我が道を突き進む。そう信じて疑わなかった少年はしかし、後にプロの世界で大きな挫折を味わい、打ちひしがれることとなる。

変化していったサッカーに対する姿勢

 トップチーム昇格から3年目となる2011年6月に、原口はクラブと新たに3年の長期契約を結んだ。

「僕はまだレッズに全然貢献していない。Jリーグタイトルをもたらしていない。そんな実績でレッズを離れて海外クラブへ移籍するなんて考えられない。今はレッズがJリーグ優勝を果たしてから次のステップを考えたいと思っています。自分の理想とするサッカー人生を送るためにも、それを達成しないと、どんどん夢が先送りになってしまう」

 浦和を離れる時は成果を得た上で、自らを育て上げたクラブに金銭を残して去りたい。クラブに残した原資は自らのようにジュニアユースやユースで大志を抱き、精進を重ねる少年たちの育成に役立ててほしい。そのためには自らのステータスを高め、全ての対象から請われる存在にならなければならない。

 長期契約を結んだ直後に行われたJリーグ第14節、2011年6月11日の『さいたまダービー』、大宮アルディージャ戦の光景は彼の脳裏に鮮明に焼き付いている。浦和レッズサポーターは実力で海外移籍への夢を勝ち取る覚悟を決め、浦和との長期契約を結び直した原口へ向けて、こんな横断幕を掲げた。

「若いレッズはおまえの背中を見て育つ。ありがとう元気」

 大宮戦。1−2で迎えた78分、原口は得意のドリブルで大宮ゴール前へ侵入しながらも、相手選手のチャージに遭いピッチに倒れ込みそうになる。誰もが『駄目だ』と思った瞬間、彼は懸命に左足を伸ばしてボールをゴールへねじ込んだ。執念が結実したそのゴールはチームを救っただけでなく、原口自身「生涯で最も思い出深いゴール」として、その胸に刻まれた。

 この頃から原口のサッカーに対する姿勢が明確に変化した。己のためだけだったサッカーへの感情が、いつしか浦和のため、皆のためへと変わり、『何故自分がサッカーをプレーするのか』という根源的な問い掛けに対する解答へと行き着いた。

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著者プロフィール

1970年生まれ。東京都出身。2001年7月から06年7月までサッカー専門誌『週刊サッカーダイジェスト』編集部に勤務し、5年間、浦和レッズ担当記者を務めた。06年8月よりフリーライターとして活動。現在は浦和レッズ、日本代表を中心に取材活動を行っている。近著に『浦和再生』(講談社刊)。また、浦和OBの福田正博氏とともにウェブマガジン『浦研プラス』(http://www.targma.jp/urakenplus/)を配信。ほぼ毎日、浦和レッズ関連の情報やチーム分析、動画、選手コラムなどの原稿を更新中。

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