強化の賜物!日の丸飛行隊の表彰台独占=プレーバック五輪 第4回

折山淑美

札幌五輪、ジャンプノーマルヒルでメダルを独占した「日の丸飛行隊」。写真は左から2位の金野昭次、1位の笠谷幸生、3位の青地清二 【写真は共同】

 日本スキー界にいまだに残る輝かしい歴史。それは1956年コルチナ・ダンペッツオ(イタリア)五輪男子回転での猪谷千春の銀メダル獲得と、72年札幌五輪ジャンプノーマルヒルで笠谷幸生、金野昭次、青地清二が成し遂げた、日の丸飛行隊・表彰台独占の快挙だ。

 日の丸飛行隊の活躍は、地元開催の札幌大会へ向けての強化策の賜物(たまもの)でもあった。64年東京夏季五輪の開催決定は59年だったが、その結果を受け、本来は戦前の40年には東京とともに五輪が開催される予定だった札幌も、「幻に終わった冬季五輪開催を実現させたい」という機運が盛り上がり、68年大会の開催地に立候補していたのだ。
 その強化競技として32年のレークプラシッド(米国)五輪で安達五郎が8位、36年のガルミッシュ・パルテンキルヘン(ドイツ)五輪で伊黒正次が7位になっていた実績のあるジャンプが注目された。そのためにと63年8月には東京近郊のよみうりランドにジャンプ台も建設され、強化選手の夏の練習に使用されるようになっていた。

 その効果は66年世界選手権(オスロ・ノルウェー)90メートル級の藤沢隆の2位。そして70年世界選手権(ビソケタトリ・当時チェコスロバキア)70メートル級の笠谷の2位、青地の7位。90メートル級で藤沢が6位という結果になって表れていた。

 札幌五輪シーズンの日本チームは好調だった。その中心は高校時代から注目されていて64年インスブルック(オーストリア)五輪と68年グルノーブル(フランス)五輪にも出場していた28歳の笠谷だった。まだワールドカップ(W杯)は実施されておらず、世界最高峰の大会だった年末からのジャンプ週間では、インスブルック、ガルミッシュ・パルテンキルヘン、オーベルストドルフ(ドイツ)と3連勝。シリーズ優勝を争う3試合の合計点では、2位につけるインゴルフ・モルク(ノルウェー)に50.4点差と、圧倒的な強さだった。だが笠谷は国内選考会を優先させて第4戦を戦わずに帰国。それは欧州のジャンプファンを驚かせ、悲しませるものでもあった。
 そのジャンプ週間では笠谷だけでなく他の日本人選手も好調だった。藤沢は4位と7位、板垣宏志が6位と7位。青地が6位と13位、金野は11位という好成績を残していたのだ。

 その勢いが2月6日の70メートル級につながった。1本目は最初の金野の82.5メートルの大ジャンプが引き金になり、笠谷、青地、金野、藤沢の順で1位から4位までを独占した。
 予想以上の好結果にジャンプ台を埋めたファンの期待は高まった。その中で最初の藤沢は失敗したが、次の金野が79メートルを飛んでトップに立ち、続く青地は失敗ジャンプながらも2位につけた。そして1本目に84メートルを飛んでトップに立っていた笠谷が79メートルを飛んできれいなテレマーク着地を決めて1位に。これで表彰台独占が実現したのだ。五輪でのジャンプ表彰台独占は、32年レークプラシッド五輪と48年サンモリッツ(スイス)五輪でノルディックスキー宗主国のノルウェーが果たして以来の快挙となった。

 各国の力が接近して激しい争いになっている近年では、極めて難しいものになっている。好調な日本はソチで、その偉業にどこまで近づけるかに期待だ。
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著者プロフィール

1953年1月26日長野県生まれ。神奈川大学工学部卒業後、『週刊プレイボーイ』『月刊プレイボーイ』『Number』『Sportiva』ほかで活躍中の「アマチュアスポーツ」専門ライター。著書『誰よりも遠くへ―原田雅彦と男達の熱き闘い―』(集英社)『高橋尚子 金メダルへの絆』(構成/日本文芸社)『船木和喜をK点まで運んだ3つの風』(学習研究社)『眠らないウサギ―井上康生の柔道一直線!』(創美社)『末続慎吾×高野進--栄光への助走 日本人でも世界と戦える! 』(集英社)『泳げ!北島ッ 金メダルまでの軌跡』(太田出版)ほか多数。

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