ウインターカップでの経験が今の土台に!=間宮佑圭×渡嘉敷来夢 特別インタビュー

松原貴実

ウインターカップを前に、JX-ENEOSの渡嘉敷来夢(左)と間宮佑圭に特別インタビュー 【スポーツナビ】

 高校バスケの一年を締めくくる最も熱い大会、「JX-ENEOS ウインターカップ2013(第44回 全国高等学校バスケットボール選抜優勝大会)」が12月23日(月)から29日(日)まで、東京体育館で行われる。
 3年生にとっては高校生活の集大成であり、それ以外の選手にとっても、この一年間の総決算となるため、毎年激しい戦いが繰り広げられる。

 今回は2007年から2009年までの桜花学園(愛知)3連覇の中心選手となった渡嘉敷来夢と、その一学年上で桜花学園の最大のライバルだった東京成徳大(東京)の主将・間宮佑圭(ともにJX-ENEOS)の2人に、当時の思い出やウインターカップの経験が今にどのように生きているかなどを語ってもらった。

両校のエースとしてお互いが意識する存在だった

「2年、3年の時のライバルは常に桜花」だったと語る間宮 【スポーツナビ】

――2人が高校在学中、間宮さんの東京成徳大、渡嘉敷さんの桜花学園は高校女子バスケ界の2強としてウインターカップでも常に優勝を争っていました。当時はお互いのチームをどんなふうに思っていたのですか?

間宮 私が2年、3年の時のライバルは常に桜花でした。ですから他のチームは意識しないというか、それぐらいのレベルでした。練習も常に桜花を意識してやっていたし、それが自分のモチベーションにもなっていましたね。

渡嘉敷 それは私も同じです。桜花に入った1年目から大会が近付くと、「成徳、成徳、成徳!」という感じ。センターの争いが鍵になると言われていたので、練習でもいつも「間宮のところで負けるな、間宮のところだ!」と言われ続けて、意識しないわけにはいきませんでした。

――当時は間宮さんと渡嘉敷さんのセンター対決に注目が集まりましたよね。選手として、当時のお互いの印象は?

渡嘉敷 間宮さんはもうオーラありまくりでした! 桜花の中でも「間宮さんのオーラはハンパないよねぇ」とみんなで話していたくらいで、試合ではそのオーラに押し潰されそうでした。ただただ、もう必死、必死!(笑)

間宮 当時の成徳には1年下の篠原(恵、現富士通)と私と、2人の184センチの選手がいたんですが、それ以上のサイズがあって、走って跳べる子が出てくるなんてびっくりでした。
 直接私がタク(渡嘉敷)とマッチアップするわけではなかったんですけど、桜花のキーになる存在であることは間違いなかったし、大会のたびに技術面での武器を増やしてくるんですよね。

渡嘉敷 いやいや(笑)

間宮 いや、ほんとに(笑)。タクはウインターカップではケガもあったけど、チャレンジャーだから試合ではしっかり力を発揮する選手でした。この子は身長もプレーもどこまで伸びるんだろう、どこまで成長するんだろうといつも気になっていました。

渡嘉敷 私は試合でメイさん(間宮)にやられるたびに、ああ、もう……って気持ちになりました。
 中だけじゃなくてハイポストからも結構シュートを打たれたし、そのシュートを気にしてるとそのままガッとドライブで行かれちゃうし。特に試合が競っている時はメイさん、メイさんと来るので、決められるたびに、ああ、もう……となって、次は自分がやらなきゃ、自分が返さなきゃと思ってプレーしたのを覚えています。

2008年の決勝がもっとも印象に残っている戦い

渡嘉敷も間宮ももっとも印象に残っている試合としてあげたのが2008年の決勝 【スポーツナビ】

――1番印象に残っている試合は?

間宮 やっぱり3年の時(2008年)の桜花との決勝戦ですね。

渡嘉敷 あっ、自分もそれです。

間宮 えっほんとに? 2人とも同じ試合ってこと?

渡嘉敷 そういうことですね。翌年に最後のウインターカップで優勝した時ももちろんうれしかったですが、2年のときはケガをしていて、それを乗り越えてやらなきゃならないというプレッシャーもあったし、自分の中では1番強く印象に残っています。
 特にあの年のインターハイ決勝では自分の不調のせいでああいう試合(東京成徳大に最大18点リードされる展開を最後に覆して辛勝)になったし、国体ではまさかの準々決勝敗退だったし、ウインターカップではどれだけ自分の力を発揮できるんだろうとずっと考えていました。それだけにあの決勝戦に勝てた喜びは大きかったです。

間宮 私は逆に、あの試合は自分が1番楽しんでプレーできた試合だったと思っています。自分にとって本当の意味で集大成だったし、もちろん勝つつもりで臨みました。ですが、最後に点差が開いて(勝つことが)厳しいなと感じた時、ここからはもう最後なんだから思いっきり楽しんでやろうという気持ちになりました。それまでガムシャラに頑張ってきて、負けても悔しくないっていうのは変ですけど、悔いはまったくなかったです。

――当たり前のことですが、毎年決勝の舞台に立てるチームはたった2つ。そこに立つまでのチーム、選手になるためには厳しい練習の繰り返しだったと思います。そんな中で悩んだり、不安を覚えたりすることはなかったですか?

渡嘉敷 自分は中学まで遊び感覚でバスケットをやっていたので、本当の意味でバスケを始めたのは桜花に入ってからです。バスケット用語もいっぱいあり過ぎて全然分からなくて「ファンダメンタルをしっかり」と言われても「それ、なに?」っていう感じでした(笑)。
 1年のころは身長がまだ伸びていたので膝にはずっと成長痛があったし、ケガも多かったですが、その中で井上(眞一)先生に言われたことだけをとにかくしっかりできるようになろうと毎日必死でした。もちろん不安はありましたが、井上先生に言われたことをやっていれば間違いないと信じていたし、悩む間もないというか、とにかく必死で付いていくという感じの毎日でした。

間宮 私は精神面で悩むことはありましたね。中学(東京成徳中)、高校とキャプテンを任された時はプレッシャーも感じました。中学に入る前はヘッポコ小学生だったので、3年になってこの名門の中学を自分が引っ張っていけるのかと考えたら、すごく不安で学校に行けなくなることもありました。「行ってきます!」と家を出ようとするのですが、玄関から先に進めなかったり……。
 高校の時も東京成徳大というブランドチームを自分がまとめていかなければならないと思うと、あれこれ悩むこともあって電車の中で泣いたこともあります。だけど、それもこれも今思えばいい経験で、そんなふうに思い悩むことを通して精神面が鍛えられたような気がしています。

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著者プロフィール

大学時代からライターの仕事を始め、月刊バスケットボールでは創刊時よりレギュラーページを持つ。シーズン中は毎週必ずどこかの試合会場に出没。バスケット以外の分野での執筆も多く、94『赤ちゃんの歌』作詞コンクールでは内閣総理大臣賞受賞。

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