アンダー世代に浸透する吉武イズム=自立した選手の育成に注力する指導法
それもそのはずで、吉武監督は昔、地元の大分県で中学校の教師として、教壇に立っていた。だが、そのイチ教師に過ぎなかった彼が、アンダー世代とは言え、なぜ日本代表の監督に登り詰めたのか。そして、なぜ自らの信念を前面に打ち出したサッカーで、2大会連続のU−17ワールドカップ(W杯)出場と、2大会連続の決勝トーナメント進出を果たすことができたのか。そこにはサッカーをこよなく愛し、指導者として、教育者として、まっすぐに追求し続けてきた姿勢があった。
サッカーの指導者を目指したきっかけ
「中学の最初のほうは野球をやっていたんです。でも肘をけがして、医者から『やめろ』と言われたので、手を使えないなら、足しかないと(笑)。中学時代は自分たちで練習を考えながら、サッカーをしていました。本格的にサッカーを教わったのは、高校からです」
大分上野丘高校サッカー部の後藤康徳監督は、ヨーロッパサッカーに精通し、吉武監督にいろんなサッカーの情報を与えてくれた。
「ストップ・ザ・ゲームなど、当時からすると、すごく先進的な指導をしてくれた。それに僕が高校3年生の時、先生は1974年W杯の(ヨハン・)クライフがいるオランダ代表のトータルフットボールの映像を見せてくれた。あの映像はすごく鮮烈でした。今までとは全く違う。『こんなサッカーってあるんだ』と、衝撃を受けました。そこから恩師のような指導者になりたいと思うようになりました」
大分大学に進学し、卒業後、数学の教員となった。
「僕が教師になった時の一番の目標は、1つは自分の母校にいい選手を送り込みたいというものでした。中学校の先生になって、自分の母校を強くさせたいので、選手たちに勉強させて、『お前もあそこに行け』と言っていました(笑)。もう一つは海外で暮らしたいという気持ちがあった。商社に入る余地はなくて、サッカー留学もできない。でも、教師となって日本人学校に行きたいという気持ちがあった。サッカーもあるし海外で暮らしたいので、教員になって頑張れば、チャンスはあると思っていました」
五輪代表選手に選ばれた教え子
「当時はW杯というより五輪だったんですね。五輪の代表選手を育てたかった」
吉武監督の夢の根本には、チームを優勝させるというより、『個の育成』がメインとしてあった。そのため、指導法もどうしたら勝てるかではなく、どうしたらよりうまくなるかにフォーカスがあてられていた。
そして、吉武監督の指導の中で、2人の五輪代表選手が巣立った。永井秀樹と三浦淳寛。2人は吉武監督が率いた大分明野中出身で、共に高い技術を誇るドリブラーだった。永井は吉武監督の下、第16回全国中学校サッカー大会で優勝し、国見でも選手権優勝を経験。Jリーガーとなり、92年にバルセロナ五輪のアジア最終予選に出場(予選敗退)。三浦は中学卒業後、国見高校で全国制覇を経験し、プロとしてシドニー五輪出場を果たし、日本代表にも選ばれている。