前橋育英を導く3つの決まり事=日大藤沢出身・荒井監督 辿り着いた初勝利

田中夕子

後輩には山本昌 野球選手としての荒井監督

 日大藤沢高校3年時、荒井監督は神奈川県大会で前人未到の2試合連続ノーヒットノーランという大記録を打ち立てた。松坂大輔や松井裕樹、名だたる夏の主役を輩出した神奈川の高校野球の歴史をひもといても、この記録を為し遂げた選手はいない。
 それほどの大記録ではあるのだが、実はそれすらも、荒井監督には苦い経験でしかない。
 なぜなら当時、チームのエースナンバーをつけたのは1学年下で、現在も中日で活躍する山本昌であり、チームの初戦や、シード校との対戦時は自分に登板機会が回ってくることはないまま、甲子園に届くことなく高校生活を終えたからだった。

 卒業後、投手としていすゞ自動車へと進んだが、3年で野手へコンバートされた。“転向”と言えば響きはいいが、実際は「これで結果が出なかったらクビ」と宣告されていた。
 1年1年、新しい選手が入ってくるたびに自分はどうなるのか不安に駆られる。友人に「クビになったらお前の職場で働かせてくれるかな?」と本気で尋ねたこともあった。プロではなく、ノンプロの世界と言えど、野球を仕事にしている以上、結果は野球で出さなければならない。
 足が速いわけでもなく、肩が強いわけでもない。平凡な自分が競争の中で打ち勝っていくためには、反復練習しかないと信じ、ただひたすら素振りに明け暮れる日々が続いた。

“あの時”を重ねて、たどり着いた1勝

 地道な努力は、ある日突然、道を拓くきっかけになる。

 クビを覚悟して臨んだ3年目のシーズンに、ようやくチャンスをつかみ、レギュラーの座を獲得。96年にチームを退くまで、都市対抗野球に7度の出場を果たした。
「同じことをやり続けてきたからこそ、感じられる変化がある。振り返ると、それは決して派手なことでもなくて、地道で、当たり前のことばかりなんですよ」
 今指導者として選手たちに言い続けていることは、他でもない。荒井監督自身が経験し、実感してきたことばかりだった。

 春夏通じて前橋育英にとって初めての甲子園出場となった11年のセンバツは、「フワフワしていて何をしたか覚えていないまま終わった」と振り返るように、監督にとっても、チームにとっても不完全燃焼のまま終わった。
 あれから2年。県では昨年の秋季大会、今年の春季大会を制し、群馬の優勝候補筆頭に。プレッシャーにも屈することなく、初めてつかんだ夏の代表切符。そんな選手たちを後押しすべく、前橋から49台のバスで応援団が訪れた。中には、荒井監督が就任した年、今のチームと同じように「優勝候補」と謳われながらも、県大会の準決勝で9回ツーアウトからのサヨナラ負けに泣いたOBたちもいた。

「いろんな“あの時”があるから、今がある。最高の時間でした」

 初勝利に胸を張り、甲子園に前橋育英高校の校歌が響く。
 当たり前のことを、当たり前に。積み重ねてきたさまざまな失敗の経験が、報われた瞬間だった。

<了>

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著者プロフィール

神奈川県生まれ。神奈川新聞運動部でのアルバイトを経て、『月刊トレーニングジャーナル』編集部勤務。2004年にフリーとなり、バレーボール、水泳、フェンシング、レスリングなど五輪競技を取材。著書に『高校バレーは頭脳が9割』(日本文化出版)。共著に『海と、がれきと、ボールと、絆』(講談社)、『青春サプリ』(ポプラ社)。『SAORI』(日本文化出版)、『夢を泳ぐ』(徳間書店)、『絆があれば何度でもやり直せる』(カンゼン)など女子アスリートの著書や、前橋育英高校硬式野球部の荒井直樹監督が記した『当たり前の積み重ねが本物になる』『凡事徹底 前橋育英高校野球部で教え続けていること』(カンゼン)などで構成を担当

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