錦織とナダル、勝負を分けたワンゲーム=全仏オープン

内田暁

チャンスを逃した錦織、脱したナダル

試合後、握手を交わす錦織(右)とナダル 【Getty Images】

 とてつもなく濃密な、20分間だった。

 通算5度目の対戦ながら、赤土の上では初めて実現したナダル戦。最初のポイントを奪ったのは、挑戦者の錦織だ。初の全仏センターコートにも関わらず落ち着き払ったチャレンジャーは、ボールを深く打ち込み、ナダルを左右に走らせるとすかさずネットに詰め、鮮やかなボレーを決めて見せる。過去のナダル戦では、玉砕覚悟と思える程にリスクを負って攻めたこともあるが、この日はつなぐボールも織り交ぜつつ、機を見るや拳銃のトリガーを引くように、強打をライン上に打ち込んだ。この試合最初のチャンスを握ったのも、錦織だ。第4ゲームではフォアで攻め、2つのブレークポイントをもぎ取った。しかしこの重要な局面で、ナダルは時速195キロのエースを含む鋭いサーブを立て続けに叩きこみ、ゲーム序盤の危機を脱した。
 この時点で、ゲームカウントは2−2。今大会第13シードの錦織は、赤土の王者と堂々伍(ご)して戦っていた。

 だが互角に見える展開にも関わらず、試合開始から20分経過した時点での両者の心理には、決して小さくない差が介在したようだ。錦織はチャンスを逃し、ナダルは逆に脱している。つかめたかもしれない主導権を逃した事実は、必然的に挑戦者の側に重くのしかかった。続くゲーム、錦織は簡単なミスを重ね、ナダルにブレークを許してしまう。

「ブレークを逃したゲームは、大きな局面だった。ブレークできていれば展開も変わっていたと思う。でも悪かったのは、ミスが続いてブレークされた次のゲーム。そういう1ゲームが、全てを変えてしまった」

 錦織本人が誰より深く悟るように、このレベルの戦いでは一つのゲーム、一つのショットが、試合の流れを決する分水嶺(れい)となる。
 ナダルが勝者の勝ち名乗りを受けたのは、錦織が悔いたこのブレークゲームから、おおよそ1時間30分後。スコアは、4−6、1−6、3−6。
 「正々堂々とやろうとし過ぎて、つなぐボールを入れすぎた。第1セットと同じように、もっと早く攻めるべきだった」
 わずか37分で落とした第2セットを、錦織はそう省みる。

 その反省を踏まえ第3セットは、再び攻撃から流れを引き戻そうと試みた。自らを鼓舞するかのように躍動的に攻め、ナダルすら追いつけぬウイナーを決め1万4千人の観客を沸かせた場面もある。だが、試合開始直後の20分間のような興奮と緊張感は、最後までよみがえることは無かった。試合が終るやいなや、客席から自然と沸き起こる『ハッピー・バースデー』ソングが響くなか、錦織は控えめに手を上げて、通路奥へと消えていった。

敗戦後の会見で見えた変化

 敗戦後の錦織が悔しそうなのは、いつものことだ。それはこの日も、例外では無い。しかし試合後の会見では、どこか普段とは異なる、妙な違和感を覚えもした。

「どんな球も拾う彼の強さを感じたし、どうしてもそこを崩せなかった。今日は風が強かったが、彼の深いスピンのショットが風に乗って、より嫌なボールになってもいた」

 そう振り返る口調はどこかさばさばし、敗因の分析も端的だ。だが、錦織の表情や体から発せられる空気は、それらの言葉とは相いれない緊張感をはらんでいる。
 相手が最も得意とするクレーで戦い、「気持ちの面では粉砕されてしまった」と認めるほどあらためて痛感した、ナダルの強さ。それでも今大会を通じ、自分の成長と手応えも、確実に身体感覚として感じている。今の彼は、負けた悔しさをダイレクトに外に出すほど幼くはなく、完敗を認め相手を全面的に称えるほどには老成しておらず、かと言って、何事も無かったかのように全てを取り繕うほどしたたかでも無いのだろう。第13シードという自身の立ち位置とナダルとの距離をかみしめつつ、彼は何かに、じっと耐えているようだった。


 14――これはこの日の錦織のショットが、ナダルのラケットに触れることなく赤土を抉った回数……すなわち、ウイナーの本数である。
 2――錦織がこの試合、悔しさを抑えきれずラケットを落とした回数。
 16――8日前には128人いた全仏オープン参戦選手のうち、6月3日まで勝ち残った人数。もちろんその中には、Kei Nishikoriも含まれる。

「絶対にこの試合は、良い経験値になる。大きなコートだと緊張もするし、今日も、いつものようには足が動かないこともあった。でもこういう経験をふまえれば、今後、もっと精神的に強くなれる」
 センターコートでナダルと戦った経験につき、錦織はそう断じた。

 彼は歴史には無関心だし、過去の記録に自分の成績を照らし合わせることはない。錦織圭は今を生き、己がたどった道のみを振り返り、未来のために戦っている。
 そうして彼が歩んだ足跡こそが、かけがえのない歴史となる。

<了>

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著者プロフィール

テニス雑誌『スマッシュ』などのメディアに執筆するフリーライター。2006年頃からグランドスラム等の主要大会の取材を始め、08年デルレイビーチ国際選手権での錦織圭ツアー初優勝にも立ち合う。近著に、錦織圭の幼少期からの足跡を綴ったノンフィクション『錦織圭 リターンゲーム』(学研プラス)や、アスリートの肉体及び精神の動きを神経科学(脳科学)の知見から解説する『勝てる脳、負ける脳 一流アスリートの脳内で起きていること』(集英社)がある。京都在住。

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