米国帰りの五十嵐亮太に復調の兆し=鷹詞〜たかことば〜

田尻耕太郎

投球スタイル確立できず「模索」続く

入団会見で、王貞治球団会長(右)にユニホームを着せてもらう五十嵐。王会長から評価を受けたことがソフトバンク入りの決め手となった 【写真は共同】

 自信とは裏腹に、キャンプから現在に至るまでの五十嵐を言葉で表現するならば「模索」の2文字しか浮かばない。2月、最初に試したのは米国で培った「ボールを動かす」スタイルだったが、シート打撃でうまく対応されてしまったのだ。「日本の打者を抑えるには、落ちるボールが必要」とフォークボール解禁を決断。ヤクルト時代は決め球にしていたが、「米国ではうまく落ちずに封印していた」のだという。しかし、3年間の封印はあまりに長かったのか、イメージ通りの球が投げられない。開幕を迎えても投球スタイルを確立できず、結果打たれたのはカットボールだった。

 今年はWBCが開催されたため、投手が日米の違いで苦しむことを認識している読者の方は多いだろう。なかでもクローズアップされたのはボールの違いだ。侍ジャパンの投手陣は米国球の対応に苦慮したが、五十嵐は逆に日本球に戸惑ったのではないか。しかし、五十嵐は笑って否定する。
「ボールは僕も日本製の方が投げやすいと感じました。だから最初から違和感はなかったですよ」

 五十嵐にとって、問題はマウンドの違いにあった。
「米国の硬いマウンドは、僕はラクでした」
 米国は、日本のマウンドとは違って穴が掘れないほど硬く仕上がっている。
「日本のマウンドは滑る感覚があるからしっかり耐えないといけない。いわゆる下半身を使って投げないといけないんです」
 しかし、五十嵐の頭の中は球種のことが優先されていた。米国と同じ投げ方で日本のマウンドに立てば、バランスが崩れるのは当然なのだが、五十嵐はそのことに気付いていなかった。「僕の悪い癖なんですが、何かにこだわってしまうと他がおろそかになってしまうんです」

2軍調整の“荒療治”で調子も上向きに

 ソフトバンク首脳陣にとっては、複数年契約で獲得した新戦力をファーム調整させるのは勇気のいる決断だったはずだ。しかし、今、その荒療治が実を結ぼうとしている。ファームで使用する球場やたまに遠征する地方球場のマウンドは、1軍本拠地とは比べ物にならないほど軟らかい。さすがの五十嵐もマウンドに神経を注がなければならなくなった。下半身をしっかりと使って投げる。すると、投球内容が良くなり、球質にも確かな手応えを感じられるようになってきた。
「ファームに来た時は本当にひどい状態だったけど、今は出来もよくなっている。(1軍昇格は)自分で決められることではないので、連絡待ちですね」
 
 開幕から2か月が過ぎた。「チームには本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです」と五十嵐。しかし、挽回する時間はたっぷりと残されている。
 日本復帰にあたり、ソフトバンク入りを決断したのは「王(貞治)会長に評価してもらえたことが、野球人として何よりうれしかったから」だという。そして「僕が高校生の頃、初めて握手をしてサインをもらったプロ野球選手が、現役時代の秋山(幸二)監督でした」。1月の必勝祈願で握手を交わした時、「あの時と同じ、大きくて柔らかい感触でした」と目を輝かせながら興奮を抑えきれなかった。
「勝ち試合の最後に僕が抑えて、ベンチ前で出迎えてくれる秋山監督とがっちり握手を交わしたい。ハイタッチが恒例? それじゃあもったいない(笑)。僕は握手をします」

 本格的な暑い夏を迎える前に五十嵐が1軍に帰ってくれば、開幕からやや低迷気味のソフトバンクにもようやく爽やかな追い風が吹くはずだ。

<了>

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著者プロフィール

 1978年8月18日生まれ。熊本県出身。法政大学在学時に「スポーツ法政新聞」に所属しマスコミの世界を志す。2002年卒業と同時に、オフィシャル球団誌『月刊ホークス』の編集記者に。2004年8月独立。その後もホークスを中心に九州・福岡を拠点に活動し、『週刊ベースボール』(ベースボールマガジン社)『週刊現代』(講談社)『スポルティーバ』(集英社)などのメディア媒体に寄稿するほか、福岡ソフトバンクホークス・オフィシャルメディアともライター契約している。2011年に川崎宗則選手のホークス時代の軌跡をつづった『チェ スト〜Kawasaki Style Best』を出版。また、毎年1月には多くのプロ野球選手、ソフトボールの上野由岐子投手、格闘家、ゴルファーらが参加する自主トレのサポートをライフワークで行っている。

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