田中達也、新潟移籍後も衰えぬ情熱=戦力外通告を受けた浦和との対戦へ
「自分に悔しく、恥ずかしく、歯がゆい毎日だった」
これまで人前で泣くことはなかった達也だが、退団セレモニーでは大粒の涙を流した 【Getty Images】
本人は自らの個性とチームスタイルがマッチしないことを自覚していたが、それは言い訳にしかならないとも思っていた。すべては努力が足りなかったから出場機会を得られなかったと言い、決して他人に責任を転嫁することはなかった。もちろん浦和を離れるのは悲しかったが、チームの力になれない自分がここに残るのは許されないこともよく理解していたように思う。
それよりも、ここ数年に渡ってケガを繰り返し、何度も戦線離脱してチームの力になれなかったことを悔いていた。チームやサポーターの力になれない。昨季リーグ最終節でのサポーターへの別れのあいさつで吐露した言葉に彼の苦悩がにじむ。
「ここ数年、ケガを繰り返し、チームの力になれませんでした。そんな自分に悔しく、恥ずかしく、歯がゆい毎日でした」
2005年秋に負った右足首のケガは完治したものの、その影響からか腰や太ももなど異なる個所が悲鳴を上げて何度もサッカーから離れた。リハビリでは慎重を期し、万全になるまでチームに合流しないと決めたが、それによって周囲から疎まれることも多くなった。チーム関係者の誰かが「アイツはなかなか復帰しない。怠けているんじゃないか」とうわさしていることは本人の耳にも入っていたが、他人の言動どうこうよりも、それに反論するだけのプレーを見せられない自分自身にいら立ちを募らせていたように見えた。
長谷部も驚くプロ意識の高さ
サッカーをプレーするのは仕事だと言い切る。仕事というと日本ではネガティブにとらえられがちだが、達也の中では崇高でかけがえのないものとして認識されている。仕事ならば一切の妥協は許されない。選手は勝利のために日々精進を重ねるべきだし、仕事に支障をきたすことは日常生活から排除せねばならない。酒もたばこもサッカーには悪影響でしかなく、息抜きと称してそれに逃げるのはプロサッカー選手として断じて許されないとも思っている。
サッカー選手の中には「楽しんでプレーする」という人もいるが、達也にはそれが理解できない。仕事は決して楽しくない。辛く厳しい道のりの中で鍛錬を重ねた末に、何らかの結果を得た先にしか本当の歓喜は得られない。それならば、たとえ結果を得られなくとも、自分は努力し続ける道を選ぶ。それが彼の口癖だった。
かつて浦和で共にプレーした長谷部誠(ボルフスブルク/ドイツ)がこう言っていた。
「達也を一言で表すと『リアル・プロフェッショナル』。サッカーのためにすべてを犠牲にできる男。アイツ(長谷部は田中の1歳年下)はお茶の入れ方も知らなくて、日常生活の家事などはすべて奥さんに任せている。そのかわり、自分はサッカーをとことん突き詰めて仕事をやり切る。僕はあれだけストイックにサッカーと向き合う選手に今まで会ったことがなかった」
サッカーが自らの仕事であるならば、所属チームのために全精力を傾けるのは当然のことだと思っている。チームやサポーターの期待に応えられなければプロ失格だし、そこにいる意味すらない。だからこそ、ケガをしてばかりでピッチに立てない自分が失格の烙印(らくいん)を押されるのは当然のこと。それが浦和から戦力外通告を受けた直後の、達也の率直な思いだった。
同僚が語る達也の魅力
「去年のリーグ最終節で達也がゴール裏に来てあいさつした時、サポーターは皆泣いていた。それを見て、自分も感じた部分がある。おそらくサポーターは他の選手たち以上に達也のことをリスペクトしていたのだと思う。アイツが常に全力でプレーするピッチでの姿に。日常生活から己を律してサッカーに取り組む姿に。アイツのサッカーに対する真摯な姿勢に、僕らは魅力を感じていた。だからこそ皆、感情を抑えきれなかったんじゃないかな」
公私ともに交流が深かった柏木陽介は先達との別れに際し、人目もはばからず号泣した。
「リーグ最終節の名古屋グランパス戦では、試合前から達也さんのことを考えて涙が出そうだった。達也さんのような偉大な選手がこのレッズを築き上げてきたからこそ今がある。だから僕のような後に残された選手は、その偉大な選手たちの後をしっかりと受け継いでプレーしなければならない。それを強く感じた」
浦和ユース出身の岡本拓也は、達也の背中を見てプロを目指し、その夢を実現させた。
「普段の達也さんは僕ら若手に何も言わない。むしろ若い選手と同じようにはしゃいでくだらないことばかり言っている。でも、その達也さんがチームを去る時、僕にこう言ってくれたんです。『お前ならできる。絶対にできる。だから頑張れ。今以上に頑張れ』って。僕らはいつも達也さんのサッカーに対する姿勢に感銘を受けてきた。今思えば、一緒にリハビリをした時、達也さんはいつも僕たちよりもひとつだけ多く練習をして終えていた。その姿が今も目に焼き付いている。いつだって達也さんは人よりも努力を重ねることを怠らなかった。僕らはそんな、達也さんの背中を見て育ってきたんです」