チョン・テセ「憲剛さんとプレーしたい」=苦しんだドイツでの日々と移籍の経緯

キム・ミョンウ

水原三星に加入したチョン・テセ。ドイツでの日々、移籍の経緯、日本に対する思いなどを語った 【写真は共同】

 北朝鮮代表のストライカーとして母国を2010年ワールドカップ(W杯)・南アフリカ大会出場に導いたチョン・テセ。大会後には、ドイツ・ブンデスリーガ2部のボーフムに移籍し、念願だった欧州上陸を果たした。1年目に25試合出場10得点という好成績を残すと、12年1月には1部の名門ケルンにステップアップを遂げる。しかし、チームは下位に低迷。即戦力として迎えられたはずのチョン・テセも出場機会を得られず、苦難の時を過ごした。

 ケルンが2部に降格した12−13シーズンも状況は変わらず、チョン・テセは移籍を決断。古巣の川崎フロンターレではなく、「自分の中で一番遠い国」と語る韓国の水原三星(スウォンサムスン)ブルーウィングスを新天地として選んだ。彼はいま何を思っているのか。苦しんだドイツでの日々、移籍の経緯、日本に対する思いなどを聞いた。

ケルンではコミュニケーションがとれていなかった

――ケルンでは試合にあまり出場できなかったが、ボーフム時代と何が違ったのか? そこで得たものと課題について教えてほしい

 結果を出していないことが一番大きいと思います。ボーフム在籍時は26歳を越えていましたけれど、チームに入ったときからそれなりの結果は残したと思います。前期だけで8ゴール決めましたし、何よりも自信を得られたことがボーフムでの収穫です。ケルンのときは即戦力として移籍しましたけれど、早々からチャンスをもらえず、どんどん自信がなくなっていきました。そんななかでやっと試合に出たと思ったら、結果が出せなかった。フォルカー・フィンケSD(スポーツディレクター)には気に入ってもらえていたけれど、フィンケがチームを去ったあと、チームのメンバーが入れ替わりました。それで試合に出られない日もありましたね。

――とにかく結果がすべてだったと

 その通りです。チャンスが来たときにゴールを決められるか、決められないか。それがすべてです。その時は自分に自信がなかったんですよ。ケルンにいたときは本当に自信がなくなっていました。周囲ともうまくコミュニケーションがとれていなかったですし、そうしたこともドイツで苦しんだ要因ですね。

――周囲ともすぐに溶け込める印象があるが

 そうでもないですよ。試合に出られないのに、なんでここに来たのかなとか、ゴールを決められないでいる自分に劣等感を感じていました。練習中に小さなミス一つしても悩むというか……。川崎フロンターレに入団した1年目のときみたいに悩んでいましたね。

――1部と2部とのレベル差で、難しかった部分は?

 それは特にありませんでした。ボーフムにいたときからプレーがおかしくなり始めていました。ボーフムで試合に出られなかったときに、どうしたらピッチに立てるのかと考えた結果、自分がエゴイスティックなプレーをしているだけじゃ試合に出られないことが分かりました。それで自分の短所を修正しようとして、プレースタイルを変えたんです。強引にシュートを打つだけじゃだめだったので……。でも、そうなると試合ではパッとしないし、決定機がまったく来ない試合とかもありました。ドイツでの2年目は監督のおかげで試合に出られていたようなものなので、周囲は自分が試合に出ることをそんなに納得はしていなかったと思います。

――そういう雰囲気を感じていたんだね

 ええ。でも、ケルンに移籍したときはボーフムでの実績があったので、そこまで劣等感はありませんでした。ただ、ルーカス・ポドルスキら実力ある選手がたくさんいたので、そこで信用を勝ち取っていくのは簡単じゃなかったですね。

アジアへの移籍は決しておめでたくはない

――ケルンでの出場機会が少なくなってから、移籍先を探していた?

 チームが2部に降格したあとすぐ探しました。すぐにチームから出されるだろうなとも考えていたので、現実的に欧州でのプレーはないなと思っていました。あと正直、また2部で戦うのが嫌だったというのもあります。みんなが思い描いているヨーロッパと、ヨーロッパに来て2部の世界って違うと思うんです。もちろん欧州でプレーしたいというなら、どこでも行けたと思います。少しレベルを落としてもいい欧州リーグなら、そういう選択肢もあったと思うんですが、そこまで欧州にこだわりはありませんでした。(3月2日で)もう29歳になるし、これ以上2部でプレーするっていうのは現実的じゃありませんでした。

――1部と2部では注目度の違いもあるしね

 レベルの高いところでプレーしたいという欲求は当然ありますけれど、とにかく試合に出たかったんです。スタメンで出たい。そのなかで韓国から話が来たんです。

――その話が聞きたかった。Kリーグ・クラシックの水原三星ブルーウィングス移籍までのきっかけと経緯について教えてほしい

 水原は韓国の名門ですし、力もあります。以前、アン・ヨンハ先輩もプレーしたチームでもあったので、声がかかったときはとてもうれしかった。以前からKリーグ・クラシックのチームの中で、水原はいいチームだなと思っていました。クラブハウスも立派で環境がいいのも知っていましたから。

――ほかのKリーグチームからもオファーはあった?

 大田(テジョン)シチズンからも声がかかっていましたが、ほかからもオファーはあったと思います。でも、自分はとにかく、水原に限定していました。実は去年の10月の時点で水原に行くことはほぼ決めていたんですよ。

――Jリーグの復帰は考えていなかった? それを期待していたファンも多かったと思うが

 もちろん、その選択肢もありました。水原と話し合いが進んでいたときに、実は川崎からも話があったんですよ。最初にチームの強化部から電話がかかってきて、「テセ、今移籍先を探しているみたいだね。川崎に戻ってくるのはどうだ?」って言われたんです。でもいろいろな条件が重なり、合意に至らないなと思っていたので断っていたんです。そんななかで、中村憲剛さんに誕生日を祝うメールを送ったら、返事がきて「テセ、お前川崎に帰ってこいよ」って言われて「うわー、どうしよう」ってすごく迷いました。今でも憲剛さんと一緒にプレーしたいって思っていますから。でも、結局は川崎とは合意に至らず、水原に落ち着いたということです。

――韓国へ移籍するにあたって仲良くしていた吉田麻也やドイツ組は何か言っていた?

 日本にいる人たちや家族や親戚、友達は韓国行きに関しておめでとうって言ってくれました。けれど、吉田やドイツでプレーしている日本人選手にとっては「おめでとう」ではないんです。欧州からアジアへ、階段が一段下がったわけですからね。なので、日本の海外組は誰一人、自分に「おめでとう」と言う人はいませんでした。水原に行くことは、決してめでたいことじゃないってことをみんなは知っているんです。

――日本の選手たちはテセの心境をよく知っているんだね。チームが決まったあと、キャンプを経てようやく開幕を迎えるけれど、もうチームには慣れた?

 チームが決まったときは本当にホッとしました。今はキャンプも終わってコンディションもいいですし、開幕スタメンも行けそうな感触はあります。

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著者プロフィール

1977年、大阪府生まれの在日コリアン3世。フリーライター。朝鮮大学校外国語学部卒。朝鮮新報社記者時代に幅広い分野のスポーツ取材をこなす。その後、ライターとして活動を開始し、主に韓国、北朝鮮のサッカー、コリアン選手らを取材。南アフリカW杯前には平壌に入り、代表チームや関係者らを取材した。2011年からゴルフ取材も開始。イ・ボミら韓国人選手と親交があり、韓国ゴルフ事情に精通している。

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