ドイツ移籍を決断した木下康介の葛藤=18歳での海外挑戦、日本の大きな光に

安藤隆人

マンCにも認められた才能

フライブルクに移籍することを決断した木下。マンCにも認められた才能を持つ 【安藤隆人】

「木下康介、ドイツ・ブンデスリーガのフライブルクに移籍」

 この報道を見て、「木下って誰だ?」と思った選手は多いだろう。それもそのはず、彼は横浜FCユースに所属する、弱冠18歳の若武者だからだ。

 木下は188センチの長身を誇り、しなやかなボールタッチと反転力、シュートセンスを兼ねそろえたストライカー。中学1年生から横浜FCの下部組織に入ると、そのポテンシャルに対する評価は高く、成長を重ね、近年は『横浜FCユースの史上最高傑作』との声もあった。その彼が最初に注目を集めたのが、昨年の8月だった。彼はマンチェスター・シティ(マンC)の入団テストに合格。そのテストも、マンCに自ら入団テストを打診したが、トップチームの監督を務めるロベルト・マンチーニが送られてきた映像を見て彼に興味を示し、逆にクラブ側から招待状を送ったことが始まりだった。

 マンCの入団テストの後には、フライブルクの練習に参加。そこでもその才が評価されていた。表面上は具体的な話が浮上したわけでもなかったが、水面下では着実に海外進出に向けた動きがあった。

 だが、その動きの中で、彼は大きな不安を抱えていた。高校から直接海外に行くべきか、それともJリーグを経由して行くべきか。そして、Jの下部組織がゆえに、ジュニアユースから6年間育ててもらったクラブでトップ昇格をせずに、海外に行くことが果たして正しいことなのか……。

移籍話が過熱する一方で感じていた焦り

 今から2年前、同じような悩みを抱え、決断を下した男がいた。宮市亮――彼もまた、悩み苦しんだ。その結果、彼は自分の奥底に眠る気持ちを最優先した。

「海外でプレーをしたい」

 この純粋な気持ちと向き合って、彼はアーセナル行きを決めた。だが、宮市の場合は、Jユースではなく、高校サッカー(中京大中京)でプレーしていたため、将来進むクラブを自由に選ぶことができた。木下はそういう立場になく、より悩みは深かった。加えて、彼は夏過ぎに内転筋を痛めると、一時は復帰したものの、すぐに背中を痛めてピッチから離れる時期が続いた。

「もどかしい自分がいます。大事な時期なのに、思い切ってプレーできない。つらいです」

 プリンスリーグ関東2部では、ベンチを温める日々が続き、出場したとしても短い時間のみ。移籍話で周囲が過熱する一方で、2カ月もの間、思うようにプレーできない自分に焦りを感じていた。

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著者プロフィール

1978年2月9日生まれ、岐阜県出身。5年半勤めていた銀行を辞め単身上京してフリーの道へ。高校、大学、Jリーグ、日本代表、海外サッカーと幅広く取材し、これまで取材で訪問した国は35を超える。2013年5月から2014年5月まで週刊少年ジャンプで『蹴ジャン!』を1年連載。2015年12月からNumberWebで『ユース教授のサッカージャーナル』を連載中。他多数媒体に寄稿し、全国の高校、大学で年10回近くの講演活動も行っている。本の著作・共同制作は12作、代表作は『走り続ける才能たち』(実業之日本社)、『15歳』、『そして歩き出す サッカーと白血病と僕の日常』、『ムサシと武蔵』、『ドーハの歓喜』(4作とも徳間書店)。東海学生サッカーリーグ2部の名城大学体育会蹴球部フットボールダイレクター

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