長年の夢を実現させた選手と、低迷する母校を支えた主務 「箱根駅伝」知られざる青春の物語

柴山高宏(スリーライト)
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提供:トヨタ自動車

トヨタ自動車陸上長距離部でマネージャーを務める、吉川大和(左)と貝川裕亮 【本人提供】

 1920年に第1回大会が開催され、2024年に記念すべき100回目を迎えた箱根駅伝。

 正月の風物詩となって久しいこの大会は、主催する学生自治団体である一般社団法人関東学生陸上競技連盟(以下、関東学連)の学連幹事、各大学の主務、マネージャーといったサポートスタッフはもちろん、警視庁と神奈川県警察の白バイ隊員や沿道の自治体、大会関係車両を提供し、ドライバーを派遣しているトヨタ自動車をはじめとする企業など、実に多くの裏方によって支えられている。

 この連載では、箱根駅伝を支える裏方たちによる、知られざる物語を紐解いていく。第3回は、1994年の第70回大会以降、本選から遠ざかる“陸の王者・慶應”を復活させるべく、選手として奮闘してきた貝川裕亮(現トヨタ自動車陸上長距離部マネージャー)。第94回大会で9年ぶりにシード権の獲得を逃し、主務として過渡期にあった駒澤大学を支えた吉川大和(同)が登場する。

 選手と主務。立場は違えど、箱根駅伝に出場して、チームを勝利に導くために力を尽くした2人に、話を聞いた。

慶應義塾大学の箱根駅伝プロジェクト

 慶應義塾大学は1920年の第1回箱根駅伝に出場した4校のうちの1校で、本選への出場30回、総合優勝1回を誇る古豪だ。94年の第70回大会を最後に本選から遠ざかっている同大学は2017年、競走部の創部100年を機に「箱根駅伝プロジェクト」をスタート。文武両道という学生スポーツ本来の在り方を追求しながら、日本体育大学時代に箱根駅伝で活躍した保科光作をコーチとして招き、長距離種目を強化。箱根駅伝への復帰を目指している。

「箱根駅伝に出場することを第一に考えると、強豪校に進学することが近道だと思うが、私は学業も大切にしたかった。進学先で迷っていたときに、慶大の箱根駅伝プロジェクトのことを知り、共感。全国高校駅伝に初出場することを目指していた美濃加茂高校陸上部出身の私には、高校と同じように成長していく過程のチームで目標を達成することに魅力を感じ、慶大に入学。私の走りで古豪復活の先鞭をつけたかった」

 そう語るのは、慶大4年時、第99回大会で関東学生連合の一員として10区を走った経験を持ち、現在はトヨタ自動車陸上長距離部でマネージャーを務める貝川裕亮だ。

トヨタ自動車陸上長距離部の貝川裕亮マネージャー 【本人提供】

 第98回大会が行われる2021年度が、俺たちにとって勝負の年になる――。貝川の1学年上には強い選手が集まって、黄金世代を形成していた。彼らが4年生になる年の箱根駅伝の予選会で、なんとしても本選復帰を成し遂げるために、厳しい練習に耐え抜いた。クラウドファンディングで募った寄付金で夏合宿を敢行し、チーム力を底上げ。貝川入学後の2年間で、予選会の順位は27位から19位まで上がった。チームを支えてくれる人たちの期待を一身に背負い、捲土重来を期して10の本選出場枠を懸けた“立川決戦”に臨むも、結果は前年と同じ19位だった。

「正直、私も先輩と一緒に引退したいと思ったくらい、悔しかった」

 黄金世代が卒業し、貝川が最高学年となって臨んだ第99回大会の予選会は26位。慶大が箱根駅伝にチームで出場してたすきをつなぐという夢は潰えたが、貝川には別の可能性が生まれた。予選会で好タイムをマークしたことで、関東学生連合チームのメンバーに選出されたのだ。

「陸上競技人生最大の目標としていた箱根駅伝に近づくことができ、本当に嬉しかったし、わくわくした。しかし、喜びも束の間、区間エントリーが決まる12月末までは本当に苦しかった。モチベーションを保つことが難しくて、もやもやとした、複雑な思いを抱きながら予選会後の時間を過ごした」

 第99回大会の関東学生連合チームは、コロナ禍の影響で合同練習や合宿を実施できず、選手は各自、この大会の監督を務めた中央学院大学の川崎勇二に、最近の調子と練習の報告をしていた。行動制限があり、顔合わせも1回しかできず、箱根駅伝当日を迎えなければならなかった。

 出走するメンバーは予選会のタイム順で決まった。貝川は11番目だった。

「1人でもケガ人が出たら補欠の一番手として走る準備をしておいてくれと言われたが、出場できるか否かわからない状況が続くのはきつかった」

 練習に集中できない様子の貝川を見かねて、コーチの保科が声をかけてきた。

「このままだと、たとえ箱根駅伝を走ることができても後悔するし、得られるものは何もない。これまでの陸上競技人生の全てを賭けて、箱根駅伝までの残り僅かな時間、本気で取り組んでみろ。それは絶対にお前の財産になるから」

 保科の一喝で吹っ切れた貝川は、気持ちを切り替えた。胸を張ってやり切ったと言うために。そして、後輩に貝川が箱根路を駆け抜ける姿だけでなく、そこに向けて本気で取り組む様子も見てもらうことで、チームのレガシーとなるために――。

絶え間なく続く応援に圧倒

 出走を予定していたメンバーにアクシデントがあり、貝川は12月下旬になって10区での出場が決定した。

 貝川が出場した第99回大会は、関東学生連合チームが久しぶりにその存在感を見せつけた。1区を走った新田颯(育英大学)が、各大学がけん制し合う中、20km近くまで独走。最後は明治大学の富田峻平、駒澤大学の円健介に抜かされたものの、トップの富田と15秒差の区間3位相当と大健闘。勝負には負けたが、新田が選択した勇気ある“大逃げ”は、多くのファンの脳裏に焼き付いた。

 最終10区。沿道には貝川の家族、慶大の監督、コーチ、チームメイトはもちろん、中学と高校時代の友人と恩師が貝川の走る姿を見届けるために、岐阜から東京まで駆けつけた。

「絶え間なく続く応援に圧倒された。こんなに声援を受けて走ったことはなく、途中、記憶が飛びそうになるくらいきつかったが、ふらふらの状態でも応援に背中を押されながら走るという、とても不思議な感覚を味わえた。本当に、この舞台に立つことができてよかった」

 貝川の区間記録は1時間13分31秒。関東学生連合チームはオープン参加という位置付けなので順位はつかないが、区間20位に相当する記録を残して、貝川の競技人生は幕を閉じた。

大学卒業後に、支える側へ

 大学卒業をもって陸上競技から引退することは決めていた。就職活動を行い、数社から内定を得た。しかし、貝川にはくすぶる思いがあった。献身的にサポートしてくれたコーチの保科やマネージャーのように、チームを支える裏方として陸上競技に携わりたいという思いが捨てきれなかったからだ。そして、貝川の思いの丈を知った保科の導きもあって、陸上長距離部のマネージャーを探していたトヨタ自動車への入社が決まった。

「選手が日々の練習を当たり前のようにできる環境を作ることが、いかに重要であるかを痛感した」

 貝川の入社初年度にあたる24年1月、トヨタ自動車はニューイヤー駅伝で8年ぶり4度目の優勝を果たした。貝川は「1年目からこんなに素敵な経験をさせてもらって、選手とスタッフ、チームを応援してくれたファンのみなさんには感謝しかない」と謝辞を述べた後、複雑そうな表情を見せ「ただ、私は同時に悔しさも味わった」という。

「今年のニューイヤー駅伝での優勝は、出走した選手と中心になって支えたスタッフのみなさんに“見せてもらった結果”だと思っている。この優勝にどれだけ貢献できたかと問われると、私はまだ自信を持って答えることができない。トヨタ自動車には日々の業務の在り方を見直して、より良いものを追求していく『カイゼン』という言葉があるが、次こそは自分がこのチームをサポートしたと胸を張って言えるように、頑張っていきたい」

 慶應大卒業後、走る側から支える側に転身した、貝川の挑戦は続く。

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