中山雅史が日本サッカー界に残した偉大な足跡=不屈の男が変わらぬ持ち続けた向上心

元川悦子

年齢に関係なく持ち続けた向上心

98年のW杯では日本の初ゴールをマーク。この得点が世界への扉を開けたと言っても過言ではない 【写真は共同】

 そのカズとともにスタメン出場したジョホールバルのイラン戦で、中山は前述の通り、貴重な先制弾をたたき出す。巧みなプル・アウェイ(ウェーブしながらDFの視野から消える動き)で相手の背後に抜けたところに中田英寿から絶妙のスルーパスが通って生まれたゴールだった。当時の日本サッカー界ではオフ・ザ・ボールの動きが注目され始めており、中山も磐田や日本代表でその改良に精力的に取り組んでいた。特に代表では、分析眼に長けた小野剛強化担当(HC)から相手の特徴を刷り込まれ、プル・アウェイの動きを徹底させられた。その練習の成果が値千金の1点に結びついたのだ。中山が30代の大台を迎えてから決定力を高めていったのは、それまで全く知らなかったサッカー理論を体系的に把握していったことが大きい。フットボーラーは、何かきっかけがあれば年齢を重ねても成長できることを、彼は身を持って証明したのである。

 98年フランス大会の後も、フィリップ・トルシエ率いる日本代表にたびたび呼ばれた。高原直泰や柳沢敦ら若手FWの台頭もあって出場時間は減っていったが、中山の日の丸への思いが薄れることはなかった。彼自身最後の代表ゴールとなったPKを決めた2001年8月のAFC/OFCチャレンジカップ・オーストラリア戦(静岡エコパスタジアム)の時、こんな話をしていたのが、強く記憶に残っている。

「ヤナギ(柳沢)もタカ(高原)もそうだけど、彼らは10代のころから世界大会を経験しているから動じない。ヤナギはボールの受け方やタイミングがすごくうまいし、タカも相手を背にしてボールを受けたり、アイデアを持ってシュートするのに長けている。自分もつねに刺激をもらっているし、FWとしての意識レベルも上がっている。30代の自分が次も呼ばれるかどうかはすべて結果次第だし、スーパーサブでも使ってもらえるだけいい。僕の理想はスタンドから見た時のようなプレーが普通にできるようになること。そういう意味ではまだまだ。もっともっと進化したいし、44〜45歳でピークを迎えられたらいい」

 このように中山という人は、年齢に関係なく優れた選手から学ぶ姿勢を忘れず、向上心を持ち続けていた。この時点で34歳になろうとしていたのに、10年先も現役で活躍している自分自身の姿を思い描いていた。それも夢物語として考えるのではなく、自分が何をすべきかを現実的にとらえ、実践していたのだ。引退会見で「若いFWが活躍しているのを見るとジェラシーを感じる」と発言したあたりからも、彼の心意気がうかがえる。

人々に愛されたサッカー選手

 実際、磐田の練習場では、体のケアを怠らない中山が最後に帰るのが日常の風景だったし、自己管理も徹底していた。それだけのどん欲な姿勢と高度な闘争心を持つ男だとトルシエに認められたから、02年日韓大会のメンバーにもサプライズ選出され、中村俊輔がつけるはずだったエースナンバー10を背負った。ピッチに立ったのは第2戦・ロシア戦の後半27分から約20分間だけだったが、日本がW杯初勝利を飾る瞬間をピッチで味わった。それはドーハの悲劇という想像を絶する屈辱を乗り越えた男にとって、至福の時間だったことだろう。

 2度のW杯を経験した代表での足掛け5年間だけをピックアップしてみても、中山雅史の存在はわれわれの脳裏に焼きついて離れない。JFLのヤマハから磐田時代を見続けてきたサポーター、09年末に戦力外通告を受けた後の3年間所属したコンサドーレ札幌で復活を待ちわびたファンにしてみれば、もっとたくさんの印象深い出来事が胸に刻まれているはずだ。これだけ多くの人々に影響を与え、愛されたサッカー選手はそういない。彼はピッチを去っても、人々の記憶に残る名プレーヤーとしてこの先も語り継がれるに違いない。

 今後については現時点で定かではないが、札幌のチームアドバイザー就任などがうわさされている。キャリアの晩年を過ごした恩のある札幌に貢献することももちろん有益なことだが、彼にはもっと日本サッカー全体に寄与するような活動をしてほしい。それが指導者になることなのか、協会に入ることなのかは分からないが、どこまでも前向きな中山なら、自分を最大限生かせる道をすぐに見つけてくれるだろう。彼の45歳での再出発にエールを送るとともに、次なる場所での活躍を大いに期待したい。

<了>

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著者プロフィール

1967年長野県松本市生まれ。千葉大学法経学部卒業後、業界紙、夕刊紙記者を経て、94年からフリーに。Jリーグ、日本代表、育成年代、海外まで幅広くフォロー。特に日本代表は非公開練習でもせっせと通って選手のコメントを取り、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは94年アメリカ大会から5回連続で現地へ赴いた。著書に「U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日」(小学館刊)、「蹴音」(主婦の友社)、「黄金世代―99年ワールドユース準優勝と日本サッカーの10年」(スキージャーナル)、「『いじらない』育て方 親とコーチが語る遠藤保仁」(日本放送出版協会)、「僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン刊)、「全国制覇12回より大切な清商サッカー部の教え」(ぱる出版)、「日本初の韓国代表フィジカルコーチ 池田誠剛の生きざま 日本人として韓国代表で戦う理由 」(カンゼン)など。「勝利の街に響け凱歌―松本山雅という奇跡のクラブ 」を15年4月に汐文社から上梓した

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