室伏広治「五輪精神が凝縮した聖火台、新国立競技場に残して」=被災地の子どもたちと聖火台を磨く
妹の由佳さん(左端)や被災地の子どもたちと東京・国立競技場の聖火台を磨くイベントに参加した室伏広治 【共同】
室伏は毎年秋になると、この場所に立つ。製作者の遺族と聖火台を磨くためだ。
室伏が聖火台磨きに加わったのは2009年のことだった。1964年に開催された東京五輪の翌年から製作者とその家族が毎年聖火台を磨いていること、その背景には知られざる製作秘話があることを知り、自ら参加を申し出たのだ。
そして迎えた4度目の秋。これまでごく少人数で行われてきた内輪の行事は今年、室伏の他にも有名アスリートが加わり、新聞・テレビ各社の報道陣が詰め掛けるにぎやかなイベントになっていた。
命を懸けた職人の知られざる製作秘話
当時、提示された製作条件について遺族に尋ねると、「製作期間は3カ月、製作費も20万円(現在の貨幣価値で約110万円)だった」という。国の威信をかけたプロジェクトにしては厳しい条件のように思われるが、他にも東京五輪に関わった人々の多くが採算度外視で働いたとされる。
萬之助さんも、「川口の名にかけて断るわけにはいかない。お国の仕事ができるのは名誉なこと」とこれを快諾。その日から夜を徹しての作業が始まった。
ところが作業を始めて2カ月後、「湯入れ」と呼ばれる大事な工程で失敗してしまう。1400度にも達する灼熱の鋳鉄を鋳型に流し込む際、鋳鉄が噴出する大事故に見舞われたのだ。ショックを受けた萬之助さんはそれまでの心労もたたって床に伏し、8日後に他界した。
猶予はわずか1カ月。周囲の落胆をよそに「作らなければ川口の恥、日本の恥」と立ち上がったのは息子の文吾さんだった。志半ばでこの世を去った父の無念を晴らすべく、必死に作業に向かった文吾さんは「これで失敗したら腹を切る」と家族に告げていたそうだ。その覚悟を知る家族もまた文吾さんの作業の邪魔になってはいけないと、萬之助さんの葬儀の日時を告げないという苦渋の決断を下した。
鈴木家の背負ったプレッシャーがいかに大きなものだったか、当時の日本がどんな時代だったか。そのことがうかがえるエピソードである。